【故事成語】指鹿为马( zhǐ lù wéi mǎ )

指鹿为马( zhǐ lù wéi mǎ ):あらすじ

秦末期、自らが次期皇帝になろうと企んだ丞相の趙高は、皇帝の前でわざと鹿を馬だと言い、他の臣下がそれに賛同するかどうかの反応を見ることによって、自分の味方につくかどうかを試したという話。

指鹿为马( zhǐ lù wéi mǎ ):故事

二世3年(紀元前207年)、章邯ら率いる軍が鉅鹿(きょろく:現在の河北省邢台市平郷県)を包囲すると(鉅鹿の戦い)、楚国の上将軍の項羽は兵士を率いて鉅鹿の救援へ向かいました。

冬、趙高は丞相となり、李斯を処刑。

夏、章邯らは戦いで退却を繰り返し、二世(胡亥)は章邯らを非難しました。章邯は恐れをなして長史の司馬欣を派遣して指示を請うつもりでしたが、趙高は接見を許しませんでした。

司馬欣は恐怖のあまり逃げ出し、趙高は人をやって追わせましたが結局は捕らえることができませんでした。

司馬欣は章邯に言いました。

「趙高は既に朝廷内で権力を握っており、功があってもなくても、いずれにせよ処刑されるだろう」

その後、項羽は秦軍を瞬く間に攻めると王離や章邯らは投降しました。

8月己亥(7日のこと)、趙高は謀反を起こそうとしましたが、他の臣下が自分に従わないのではと思い、趙高は臣下たちを試すためのある方法を思いつきました。

ある日、趙高は一頭の鹿を連れてくると、胡亥に献上しました。

そして、多くの臣下の目の前で鹿を指さしながら「この馬は陛下のために特別に用意いたしました」と言いました。

胡亥はとても不思議に思い、「これは鹿ではないのか」と言いましたが、それでも趙高は「これは馬でございます」と譲りませんでした。

「もし信じて頂けないのなら、他の者に聞いてみてください」

趙高の目つきから何を企んでいるのかをすぐさま理解した臣下たちは、「確かに、馬でございます」と口を揃える者もいれば、黙ってうつむいたままの者もいました。

「それは鹿ではないか」と正直に言ってしまった臣下たちは、その後、趙高によって処刑されてしまいました。

出典《史記・秦始皇本紀》

《史记・秦始皇本纪》:“赵高欲为乱,恐群臣不听,乃先设验……或言马以阿顺赵高,或言鹿。”

今回の故事成語である「指鹿为马」の故事は司馬遷が著した『史記』の「秦始皇本紀」に登場します。

この「指鹿为马」の故事に至るまでには一連の流れがありますので、まずはそこから話していきたいと思います。

始皇帝が亡くなる前の紀元前211年にある事件が起きました。

現在の河北省・山東省の境界付近に隕石が落下したのですが、その表面には「始皇帝死而分地」(始皇帝の死後、天下は分断される)と刻まれていた(実際には誰かが刻んだ)という事件です。

天から降ってくる隕石にそのような言葉が書かれているということは、すなわち「天の意志」であることから非常に縁起が悪いものでした。

犯人捜しのため、その隕石が見つかった村の人たちは徹底的に調べられ、結果、村人全員が処刑され、隕石も焼かれ砕かれてしまいました。

紀元前210年、始皇帝は末子の胡亥( hú hài )李斯( lǐ sī )を連れて遊行している途中に病に倒れてとうとう亡くなってしまいました。

前年には陳勝・呉広の乱が起こっており、泣きっ面に蜂とばかりに始皇帝が死去したとあれば再び天下が乱れることは必至でした。

それを憂慮した李斯は赵高( zhào gāo)を含めたごく少数の人たち以外にその死を知らせませんでした。

実は、始皇帝は死の直前、自分の葬儀は長男の扶苏( fú sū:扶蘇)が主催するようにとの詔を趙高に託していました。

葬儀を扶蘇が主催すると言うことは、つまり扶蘇を時期後継者として指名することを意味していましたが、趙高は李斯を丸め込んでその詔を握りつぶしてしまい(沙丘政变: shā qiū zhèng biàn )、扶蘇には偽の詔を発して自害させてしまいました。

始皇帝の死から2カ月後、20歳の胡亥は秦二世( qín èr shí:二世皇帝)として即位しました。

紀元前208年7月、趙高は謀反の疑いをかけて李斯を処刑し、自らは丞相となって次第に権勢を振るうようになりました。

こういう時代背景や事件のあとに鹿を馬だと言う趙高の話が出てきますが、以下の話は原文と違ってやや脚色されていますが、趙高が胡亥に鹿を馬だと言い張るシーンになります。

その後、次第に胡亥が疎ましくなってきた趙高はある日、胡亥への献上のための鹿を用意するように命令しました。

ただ、これは決して鹿を献上するために用意したのではなく、自分に従う者が臣下たちの中にどれくらいいるのかを見分けるためのものでした。

そして、臣下たちの目の前で誰が見ても明らかな鹿を指さしながら趙高は言いました。

「陛下に献上のための良馬を用意いたしました」

すると胡亥は笑いながら「これは鹿ではないのか」と言いましたが、趙高は顔色一つ変えることなく「いいえ、馬でございます」と言いました。

「馬だとしたら、なぜ角が生えているのだ」と尋ねる胡亥。と、趙高は振り返ると臣下たちを指さしながら大声で言いました。

「これは馬であって鹿ではありません。もし信じて頂けないのなら、ここにいる者たちに尋ねてみてください」

その言葉に趙高が何を企んでいるのかを理解した臣下たちは「その通りです、馬でございます」と迎合しました。

本当のことを言えば自分の命が危ないと思い臆病風に吹かれてしまいながらも、自身の良心に反したくはない臣下たちはうつむいたままでした。

しかし、正直にそれは馬であると言って譲らなかった臣下たちは、その後、一族もろとも処刑されてしまいました(投獄されたとも)。

原文に比べていくらか脚色されていますが、以上が「指鹿为马」の故事になります。

趙高はもともと勤勉であり、法律にも精通していたことから「中車府令」(皇帝が馬車で行幸する時に同行したりする官職)に抜擢されるとともに、始皇帝の末子の胡亥に法律を教えたりもしていました。

しかし、教え子であった故亥を後に自らの策で自害へ追い込むというなんとも悲しい話です。

一方の李斯は始皇帝の生前は丞相を務めており、貨幣の統一度量衡の統一文字の統一で功績を残しています。

歴史の授業で「始皇帝は貨幣や度量衡、文字を統一した」と習いますが、すべては彼の上奏によるものです。

始皇帝の末子の胡亥はわずか20歳で秦の二代目皇帝になったものの、その後、趙高の策によって24歳の若さで自害させられてしまいます。

秦の3代目の皇帝である子婴( zǐ yīng:子嬰)の即位後、趙高もそれまで犯してきた罪により一族もろとも滅ぼされ、秦は子嬰の即位からわずか46日後に劉邦に降伏して滅亡してしまいます。

こうして調べてみると故事の背景には意外と悲しい人間ドラマがあって、面白いのと同時にどこか哀愁を感じますね。

例文

坏人常常指鹿为马

做事不要指鹿为马

为了利益,他经常指鹿为马

这明明是个苹果,可是他却指鹿为马地说成是红色的梨子。

作为一个政治家不要故意指鹿为马

類義語

混淆是非( hùn xiáo shì fēi ):(故意または無意識に)是と非を混同させる

颠倒黑白( diān dǎo hēi bái ):(故意に)是非善悪を逆さまにする

対義語

是非分明( shì fēi fēn míng ):是非が明らかである

【韓国語】지록위마(指鹿為馬)

韓国語で「指鹿为马」は「지록위마」(チロギマ)となります。

詳しくは以下の記事にまとめてありますので、ぜひ読んでみてくださいね。

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

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