【故事成語】约法三章( yuē fǎ sān zhāng )

目次
约法三章( yuē fǎ sān zhāng ):あらすじ


秦朝末期の紀元前206年、秦の都である咸陽に攻め入り秦を降伏させた劉邦は、殺人・傷害・窃盗の罪を犯した者は罰するという簡単な3つの法律を定めることを民たちと約束したという話。
约法三章( yuē fǎ sān zhāng ):故事
秦朝末期の紀元前206年。
劉邦は大軍を率いて関中へと攻め入ると、秦の都である咸陽まで数十里の「覇上」に到着しました。
秦の3代目皇帝の「子嬰」は在位期間わずか46日目にして降伏することとなり、劉邦は遂に咸陽入りを果たしました。
当初、劉邦は豪華な王宮に留まろうと考えましたが、これでは民心を失ってしまうことになるとの誡めを「樊噲」や「張良」から受けたため、考えを改めると、わずかな兵を残して覇上に引き返しました。
民心を得るために、劉邦はまず漢中の各県から父老(ふろう)たちを呼び寄せました。
そして、民衆を苦しめていた秦の苛酷な法律をすべて廃止して、簡単な法律を定めることを約束しました。
まずは、殺人を犯した者は処刑すること
そして、傷害や窃盗の罪を犯した者は相応の罪で罰するという内容でした。
その後、各地に人を派遣してその内容を宣伝すると、民衆はそれを聞いて歓迎し、劉邦の軍を肉や酒でもてなそうとしましたが、劉邦は民に散財させたくないとしてこれを断りました。
これにより劉邦は民心を得ることに成功し、天下を握ると漢王朝を開くこととなりました。
约法三章( yuē fǎ sān zhāng ):意味
「约法三章」は、日本語では「法三章」ということもあり、「簡単な取り決めをすること」を意味し、共通のルールや決まりをあらかじめ決めたり提案したりすることを表わします。
出典《史記·高祖本紀》
《史记·高祖本纪》:“与父老约,法三章耳;杀人者死,伤人及盗抵罪。”

今回の故事成語である「约法三章」のもとになった故事は前漢を建てた劉邦について記した『史記・高祖本紀』に登場します。
『史記』とは、前漢の武帝時代に司馬遷(しばせん)により編纂された中国の歴史書のことで、中国の「二十四史」のひとつに数えられ、五帝時代(紀元前31~紀元前21世紀)から前漢の武帝の時代(紀元前1世紀)までの歴史的人物などについて記載されています。
また、日本語でもおなじみの諺や四字熟語などが『史記』からたくさん誕生しており、例えば、「良薬は口に苦し」や「四面楚歌」「完璧」「背水の陣」「臥薪嘗胆」「酒池肉林」なども『史記』が出典になっています。
日本の元号の出典としても用いられていて、「平成」もこの『史記』が出典となっています。
以下は昭和から平成に改元する際の竹下登元首相の談話(昭和64年1月7日)の一部を内閣府のホームページから引用しました。
新しい元号は「平成」であります。これは、史記の五帝本紀及び書経の大禹謨中の「内平かに外成る(史記)地平らかに天成る(書経)」という文言の中から引用したものであります。この「平成」には、国の内外にも天地にも平和が達成されるという意味がこめられており、これからの新しい時代の元号とするに最もふさわしいものであると思います。
引用元:https://www.cao.go.jp/others/soumu/gengou/index.html
さて、この『漢書』の「高祖本紀」には劉邦が庶民から皇帝になるまでの話が書かれています。
秦の3代目皇帝の子嬰が降伏したあとに劉邦が「父老」たちを集めて簡単な法律を定めることを約束した話が「约法三章」の故事成語のもとになっています。
ちなみに「父老」とは戦国時代や秦代、漢代における集落(里)の秩序維持のための指導者であり代表者のことで、主に人生経験が豊かな長老の人があたっていたと言われています。
ちなみに「父老」( fù lǎo )は現代中国語では「お年寄りへの尊称」として用いられることがあります。(個人的にはあまり聞きなれないですが)。
出典《漢書·刑法志》
《汉书·刑法志》:高祖初入关,约法三章曰:“杀人者死,伤人及盗抵罪。”
『漢書・刑法志』とは後漢時代の「班固」が著した『漢書』のなかで前漢時代の法律や刑罰について紹介しているものです。
「约法三章」の故事にあるように、子嬰を降伏させ秦朝を滅ぼしたあと、劉邦は簡単な3つの法律だけを定めることを約束したという話がこの『漢書・刑法志』にも載っているため、『史記・高祖本紀』同様に「约法三章」の出典とされることがあります。
しかし、「约法三章」制定後も周辺の少数民族は漢に帰順することなく戦が絶えなかったため、「三章」だけでは取り締まりに不十分だと感じた「相国」(しょうこく:宰相のこと)であった「蕭何」(しょうか)は、秦朝の法令から時世に合うものを選び「九章律」(きゅうしょうりつ)を定めることにしました。
「九章律」は、もともと紀元前407年の戦国時代において魏国の李克(李悝とも)が定めた『法経』(原文は散逸)がもとになっていて、魏国から亡命した「商鞅」がそれに少し手を加えて『秦律』として秦国と秦朝に受け継がれ、秦朝滅亡後に蕭何が手直しして制定したものになります。
魏国の『法経』は盗賊について、その逮捕や拘留について、詐欺や賭博、汚職などの犯罪やその刑について定められていて、全6篇で構成されていましたが、その存在自体を疑う見方もあるようなので実在したのかどうかはわかりません。
ちょっと深掘り
さて、この成語のもとになった故事は『史記』が出典になりますが、その『史記』を編纂したのが前漢時代の歴史家であり思想家、文学者であった司馬遷(紀元前145/135~紀元前86年)になります。
『史記』の正式名称は『太史公記』や『太史公書』といいますが、それは司馬遷が自らのことを「太史公」と称していたことに由来します。実際、『史記』の各編の最後には司馬遷自身の論評が書かれており、「太史公曰」という書き出しになっていて、司馬遷は自らのことを「太史公」と呼んでいます。
父の死から3年の喪に服したあとの紀元前107年、父が就いていた官職の「太史令」(前漢時代の官職で、国史の編纂や歴の制定などを担当)を継ぎました。その後、『史記』の編纂を始めることとなり、紀元前91年に父の遺志でもあった『史記』を完成させると、紀元前86年頃にその生涯を閉じました。
ちなみに、司馬遷といえば宮刑(男性のシンボルを取り除く刑で、死刑に次いで重い刑とされた)に処されたということが最も印象的なのではないでしょうか。
同じ男性として、「宮刑」という言葉を聞いて想像しただけでもゾッとするものを感じますが、ではなぜ司馬遷は宮刑に処されることになったのでしょうか。
話は司馬遷が『史記』を編纂し始めた頃まで遡ります。
《三国志·魏書·王粛伝》によると、司馬遷が書いていた「孝景本紀」や「今上本紀」を読んだ漢の武帝は、その記述がどうも自身を貶めていると感じ激怒しという話が載っています。
具体的にどの部分にそう感じたのかは分かりませんが、その後、その部分を削除させたと言われています。
時は下って紀元前99年、「李広利」が匈奴の討伐に向かいました。その支援のために李広利の孫の「李陵」が5000の兵を連れて駆け付けましたが、奮戦・善戦したものの匈奴軍に敗れてしまい、とうとう投降してしまいました。
この件に関して司馬遷は、李陵が投降したのは生きて再び漢に対して功を挙げるためであると弁護しましたが、これがかえって武帝の逆鱗に触れることになってしまいました。
まず、今回の戦いの指揮をとっていたのは李広利であり、彼は武帝の寵姫である「李夫人」の兄でした。
また、李広利を選任したのは武帝自身であったため、司馬遷の発言は武帝自らの采配を否定するものでした。
また、『史記』に武帝自身を貶める内容を記述していた例の一件もあり、武帝は司馬遷を投獄し、「诬罔」(誣罔:皇帝を欺き陥れる罪)により死刑に処するよう命じました。
当時の法律では、死刑を言い渡された者には「死一等を減ずる」ために2つの方法がありました。
ひとつ目は「赎钱」( shú qián:贖銭)を50万を支払う方法。
ふたつ目は「宮刑」に処されること。
司馬遷には贖銭を支払えるだけの財力もなければ、代わりに支払ってくれる友人もいなかったため、残りの選択肢である宮刑を受け入れざるを得ませんでした。
ではなぜ彼が死を選ばなかったのかは、やはり父の遺志でもあった『史記』を完成させるためだったとされています。
例文
我和自己约法三章,晚上睡觉之前我什么都不吃。
刘邦一到关中就和老百姓约法三章。
那小孩子跟他妈妈约法三章,每天晚上帮她做饭洗碗。
類義語
勉強中・・・
対義語
为所欲为( wéi suǒ yù wéi ):欲しいままに振る舞う、したいことをする、したい放題なことをする
参照
Wikipedia「司馬遷」(中文)
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