「徐夫人」は「徐さんの奥さん」にあらず?!

今回のブログタイトル「徐夫人」は「徐さんの奥さん」にあらず?!。

いきなり「徐夫人」と言われても、徐さんの奥さんがこの世に五万といる中で“ああ、あの徐さんの奥さんね”なんていえる人は多くはないと思いますし、そもそも“誰?!”となるのが普通の反応だと思います。

ただ、歴史の授業でも勉強したことがある中国の始皇帝と関係があると言えばちょっとは興味が湧いてくるのではないでしょうか。

「徐夫人」は徐さんの奥さんのことを指しているわけではありません。

では、徐夫人とはいったいどういう人なのか、今回のブログではその件について、秦の始皇帝が中華統一を果たす前の時代まで戻ってちょっとだけ詳しくみていきたいと思います。

太子丹と荊軻

秦王政(後の始皇帝)の秦国による中華統一がいよいよ現実味を帯びてきていた戦国時代末期。

弱小国が強国に呑み込まれていた文字通り弱肉強食という悲惨な時代が良くも悪くも終わりを迎えようとしていた時期でした。

西側に位置する秦国の隣国である趙国を挟んで、現在の北京市一帯には燕国が存在していました。

その頃、人質として捉えられていた燕国の太子丹が秦国から母国である燕国に逃げ帰って来るという事件がありました。

これは一説によると、太子丹が秦王政から不当な扱いを受けていたためだったとされており、帰国後の太子丹は積年の恨みを晴らそうと秦王政に復讐しようと考えていました。

太子丹自身の考えとしては、まずは秦王政を脅迫することで各諸侯に領土を返還するように迫るというもので、もし領土返還に応じないようであればその場で命を奪えばいいというものでした。

そこで、この計画を実行するにあたって刺客を送り込むことになったのですが、その刺客として白羽の矢が立ったのが荊軻(けいか)という男でした。

衛国生まれの荊軻は書をよく読み剣術を好んでいたことから各地を放浪して遊説していましたが、後に燕国に辿り着くと筑(琴に似た打弦楽器)の名手であった高漸離(こうぜんり)らと出会いました。

荊軻たちは毎日のように市中で酒を酌み交わしては高漸離の撃つ筑に合わせて歌を歌っていましたが、やにわに、周囲の人たちの目を気にすることなく声をあげて泣き出すということがよくありました。

ここから「傍若無人」(傍らに人無きがごとし)という故事成語、四字熟語が誕生することになるわけですが、詳しくはこちらの記事【故事成語】旁若无人( páng ruò wú rén )にちょっと詳しくまとめていますので興味のある方はぜひ読んで見てくださいね。

そんな酒癖があまり良いとはいえない荊軻ですが、遊説していた各諸侯国では賢人たちとの交流もあり、燕国に来てからは処士(才徳がありながらも仕官せず隠居している人)の田光(田光先生)にも一目置かれていました。

そして、刺客に最適の人物として荊軻を太子丹に推薦したのがこの田光でした。

太子丹から計画の詳細を聞いた荊軻でしたが、自身には荷が重すぎるとして一度は断ったものの、太子丹の熱意に押されて引き受けることにしました。

しかし、なかなか行動に移さないまま時間ばかりが虚しく過ぎていくと、燕国を取り巻く状況が一変します。

それまで緩衝地帯としての秦国と燕国の間にあった趙国が秦国によって攻め滅ぼされると、秦軍はそのまま燕国の国境まで迫ってきてしまい、秦国による燕国侵攻はもはや時間の問題となっていました。

焦った太子丹は計画の早期実行を催促しますが、それに対して荊軻は秦王政と謁見できるための確実な方法を提案しました。

それは、秦国から懸賞金が懸けられている樊於期(はんおき)の首級と、(割譲すると偽った)督亢(とくこう、現在の北京市南端一帯)の地図を献上するというもので、そうすれば秦王政は喜んで自分と会ってくれるだろうから、そこで計画を実行するというものでした。

ただ、太子丹としては秦王政をまず脅迫して領土返還を求め、もし応じなければその場で仕留めてしまえば良いという考えだったにもかかわらず、どういう訳か、荊軻自身は初めから秦王政を仕留める気満々でいたというのが個人的にはちょっと不思議な感じがします。

それは、樊於期が自身の首級を荊軻に差し出すために自害する直前、荊軻は樊於期に“もし秦王に接見できたら左手で彼の袖を掴み、右手の匕首(小剣)でその胸を突き刺すのだ”と語った場面から知ることができます。

ただ、趙国が攻め滅ぼされてしまい秦軍が国境まで迫って来ている今、燕国が存亡の危機を迎えている中で秦王政を暗殺するというのは、その流れを変える唯一の選択肢だったと荊軻が考えていたのであれば、そう考えていたことに納得はいきます。

いずれにせよ、樊於期の首級と督亢を描いた巻物の地図の用意を済ませると、荊軻は秦武陽という付き添い人とともに秦国に乗り込んでいき、歴史の流れを大きく変えることになるかもしれない秦王政暗殺を実行していくことになります。

太子丹と荊軻たちによる秦王政への復讐についての詳しい内容はこちらの記事【故事成語】图穷匕见( tú qióng bǐ xiàn )にまとめてありますので、よかったら合わせて読んで見てくださいね。

匕首と徐夫人

さて、何としてでも秦王政に復讐したいと考えていた太子丹にとって、これは一生に一度あるかないかのまたとない絶好の機会でした。

しかし、成功した場合のリターンは大きいものの、ここで失敗してしまっては自身の命のみならず燕国の存亡自体も大きな危険に晒してしまうことになるのは必至という、まさにハイリスク・ハイリターンの博打そのものでした。

そこで、太子丹は仮に秦王政への脅迫が失敗してその場で仕留めることになった場合、確実に秦王政の息の根を止められるような武器を探すことになりました。

そのことについて司馬遷の『史記』「刺客列伝・荊軻伝」と劉向らによる『戦国策』「燕策三」に記述があり、太子丹は天下一の切れ味を持つ匕首を探し求めていて、趙人の徐夫人から百金を叩いて手に入れたとされています。

また、刃には毒を焼き入れており、試し切りをしてみると血をわずかに流すだけで皆すぐに命を落としてしまったとも記述されていることから、その匕首の致死性とその即効性が分かります。

個人的には匕首の切れ味を追求するよりかは毒の致死性を追求したほうが良かったのではと思うのですが、ひとまずそれは適当なところにぶん投げておきます。

徐夫人は男性?!

さて、ようやくここで今回のブログのタイトルにもある「徐夫人」というワードが登場することになります。

ネットで徐夫人と検索すると、三国時代の孫権の2番目の正妻である徐夫人がヒットしますが、今回のブログに登場する徐夫人とは別人になりますので注意してくださいね。

さて、三国時代から遡ること約400年の戦国時代末期にも徐夫人という人物が存在していたわけですが、徐夫人とは太子丹が手に入れようとしていた天下一の切れ味を持つ匕首を作った人物になります。

「夫人」という言葉から徐という男性の妻である女性を想像してしまうので、荊軻が用いた暗殺用の匕首を作ったのが女性だったのかと勘違いしそうになりますが、実際には違うようので、そこについてちょっと詳しくみていきたいと思います。

劉向らによって前漢時代に編纂された『戦国策』には宋代に鮑彪(ほうひゅう)という人物によって注釈がつけられていて(『戦国策注』、『国策』)、その注釈部分には「索隐云,徐,姓;夫人,名。男子也。」と記載されているとしています。

拙訳で恐縮ですが、「『索隠』(唐の司馬貞による『史記』の注釈書)いう、徐は姓、夫人は名であり、男である、と」という内容の訳になります。

つまり、徐夫人とは徐さんの妻を指す女性ではなく、徐夫人という姓名の男性だったということになります。

以上のことから、太子丹が百金を費やして手に入れた天下一の切れ味を持つとされる匕首を作った徐夫人というのは、女性ではなく男性であったということになります。

なんとも紛らわしいwww

暗殺未遂から誕生した故事成語

さて、中国語には图穷匕见( tú qióng bǐ xiàn:図窮匕見 )という故事成語があるのですが、中国語学習者や中国の歴史について興味がある方以外はほとんど耳にしたことがない故事成語だと思います。

これは荊軻が秦王政を暗殺しようとした時の場面から誕生した故事成語になります。

どういうことかというと、荊軻たちが秦王政に謁見した時に樊於期の首級とともに(割譲すると偽った)督亢の地図が描かれた巻物を献上するのですが、実はその巻物の地図の中には例の匕首を忍び込ませていました。

秦王政の目の前で荊軻はゆっくりを巻物の地図を開いていくわけですが、地図が開き終わると同時にゴトンっと匕首が姿を現したかと思うと、荊軻はすぐさまその匕首を右手で握って秦王政の胸めがけて突き刺すという場面が『史記』などには描かれています。

中国語の图穷匕见(図窮匕見 )という故事成語は直訳すると“(巻物の)地図が開き終わると匕首が現れる”となり、そこから、物事が最後の局面になって真相や真意がわかることという意味になります。

この图穷匕见(図窮匕見 )という中国語の故事成語については以下の記事【故事成語】图穷匕见( tú qióng bǐ xiàn )にちょっと詳しくまとめてありますので、あわせて読んで見ると少し理解が深まるかもしれませんので、ぜひ読んで見てくださいね。

荊軻と「傍若無人」

燕国に赴いた荊軻は、筑の名手だった高漸離と知り合いになり、市中で酒を酌み交わしながら歌を歌っては人目もはばからずに泣いていた様子が『史記』の「刺客列伝・荊軻伝」に記載されています。

その様子について「傍らに人無きが如し」と書かれているところから、日本語でもおなじみの「傍若無人」という故事成語が誕生しました。

故事成語「旁若无人」についてちょっと詳しく解説している記事旁若无人( páng ruò wú rén )もぜひあわせて読んでみてくださいね。

荊軻にとどめを刺したのは誰?

『史記』や『戦国策』、また長編歴史小説である『東周列国志』には荊軻がとどめを刺されるシーンが出てきます。

また、当時の秦の法律では殿堂の中ではいかなる者も武器を携帯してはならないという決まりがあったと言われていて、また護衛の者も殿下(殿堂に上がる階段の下)で待機していなければならず、王の命令なしに殿堂に入ってくることはできなかったとされています。

その点も交えながら以下の記事にまとめていますので、あわせて読んで見てくださいね。

樊於期と「腐心」

荊軻の説得により自分の首級を差し出すことにした樊於期ですが、『史記』によれば「腐心」は彼が最期に発した言葉として描写されています。

参照

『戦国策』「燕策三」(維基文庫)

「徐夫人」(百度百科)

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

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