【故事成語】乌合之众( wū hé zhī zhòng )

乌合之众( wū hé zhī zhòng ):あらすじ

新(莽漢)滅亡後、自らを皇帝と称して挙兵した王郎の軍を蹴散らすことなど、枯れ木や枯れ枝を折るくらいに簡単なことだと耿弇(こうえん)という人物が言った話。

乌合之众( wū hé zhī zhòng ):故事

新(莽漢)滅亡後、更始元年(23年)12月、更始帝(劉玄)は皇帝を称しましたが、依然として多くの人が天下を争っていました。

邯鄲の王郎という占い師は、漢の宗族である劉林や趙郡の豪族である李育らの支持の下、自らを成帝の子であると偽って皇帝として即位しました。

多くの人が王郎を天子とみなし、その勢力は日に日に増していくと、遂には大司馬(軍事を司る官職)であった劉秀を上回るほどになりました。

当時、耿弇という若者がおり、劉秀に帰順しようとしましたが、彼の従官である孫倉などは王郎に降るよう主張しました。

それに対して耿弇は激怒し、王郎は人を騙す賊に過ぎず、いずれ囚われの身となるだけだけであり、精鋭の騎兵を派遣して烏合の衆を蹴散らすことなど枯れ木や枯れ枝を折ることのように容易いことだと言いました。

そして、大局を見誤れば一族もろとも滅ぼされてしまうと忠告しましたが、従官たちはそれには耳を傾けず耿弇のもとを去り王郎に帰順し、耿弇は劉秀に帰順しました。

その後、耿弇らの率いる軍は王郎軍を打ち破ることになりました。

出典《後漢書・耿弇伝》

《后汉书·耿弇传》:我至长安,与国家陈渔阳、上谷兵马之用,还出太原、代郡,反复数十日,归发突骑以辚乌合之众,如摧枯折腐耳。

今回の故事成語である「乌合之众」の故事は、『後漢書』「耿弇伝」に登場します。

耿弇(こうえん:3~58年)とは新末後漢初の武将で、後漢の初代皇帝である光武帝の中国統一を助けた28人の功臣のひとりとして「雲台二十八将」にも描かれています。

更始元年(23年)、王莽は敗れて更始帝(劉玄)が即位すると新は滅びることになりました。

耿弇の父親である耿況は新の体制下で上谷郡の太守(郡の長官)を務めていましたが、新が滅ぼされると諸将が各地の領土を攻め始めたことで各郡の太守などが殺害されたりしていくのをみて大きな不安を感じていました。

そこで数え年で21歳だった耿弇は、献上の品を携えて使者として長安へ行き更始帝に謁見しようとしました。

その頃、山東省では「赤眉軍」(農民による反乱軍)が勢力を拡大しており、同年10月にはその平定のために更始帝は劉秀率いる軍を派遣しました。

すると同年12月、邯鄲の王郎が自らを成帝の遺児であると称して挙兵すると、その勢力は劉秀軍を凌ぐほどに強大となっていきました。

ここで登場するのが今回の故事成語である「烏合の衆」の故事になります。

長安へ向かう道中で王郎挙兵の知らせを聞いた耿弇の従官たちは、勢いのある王郎に帰順するように耿弇を説得しますが、耿弇は王郎たちを「烏合の衆」であるとみなし、各地から兵を動員して、さらに精鋭の騎兵部隊で攻めれば簡単に打ち破ることができると言いました。

しかし、従官たちは耿弇のもとを去り王郎に帰順することになりました。

その後、耿弇ら率いる上谷郡と漁陽郡の連合軍は劉秀に帰順すると邯鄲へ向かう途中で王郎の軍を撃破し、先に南下していた劉秀の軍がいる広阿(現在の河北省南部)に向かいました。

その頃、劉秀は広阿で王郎軍と戦っていましたが、王郎の増援部隊として二郡の兵馬が邯鄲から向かっているとの噂を耳にしており、みな震え上がっていました。

しかし実際には耿弇らが率いてきた援軍であることを知ると劉秀は非常に喜び、その後はその勢いに乗じて邯鄲を攻めると、王郎を打ち破ることとなりました。

ちょっと深掘り

今回の故事成語である「乌合之众」は日本語でもおなじみの「烏合の衆」のことで、「規律や統一もなく寄り集まった群衆」という意味になります。

また、「烏合」とは「カラスの集まり」「カラスのように集まっていること」をいいます。

映画やドラマなどのセリフで聞くことがあるくらいで、日常でそう頻繁に使われるような言葉ではないという感じですし、私自身も日常会話で使ったことはほとんどないかもしれません。

そもそも人生の中で“敵”と戦うということがないですからね(笑)

ただ、戦争以外にも政治の世界でも「今の野党は烏合の衆だ」のような使い方をすることはあるのかもしれません。

さて、上谷郡と漁陽郡から動員された耿弇らが率いる連合軍ですが、広阿で劉秀軍と合流する前にも、その途上で王郎軍に対して大きな戦果を挙げていました。

『後漢書・耿弇伝』にはその戦果について「所过击斩王郎大将、九卿、校尉以下四百余级,得印绶百二十五,节二,斩首三万级,定涿郡、中山、巨鹿、清河、河间凡二十二县」と記述しており

王郎の大将、九卿、校尉以下400の首級を挙げ、また、125の印綬と2つの符節(命令などを伝達するための割符のこと)を得、3万の首級を挙げると、さらには定涿郡など22の県を平定したとあります。

その戦果を挙げるために用いたのが上谷郡と漁陽郡の連合軍となりますが、同伝には「各发突骑二千匹,步兵千人」とあり、「それぞれ突騎2000と歩兵1000を動員した」と記述されています。

そもそもここに出てくる「突骑」( tū qí:突騎)とは一体どのような兵種を指しているのでしょうか。

字から想像はつくと思いますが、「突騎」は騎馬隊または騎兵隊のことを指していますが、単なる騎馬隊ではなく「精鋭の騎兵部隊」になります。

漢代では匈奴や烏桓などの異民族からの侵入に悩まされていましたが、この「突騎」とはまさにそうした異民族の侵入に対抗するために設けられていた精鋭の騎兵部隊のことを言います。

最後に、新が滅亡してから今まさに勢いのある王郎につくのか、それとも劣勢だった更始帝(劉玄)につくのかという人生最大の選択を迫られた耿弇ですが、自分の部下の説得に惑わされることなく更始帝(劉玄)につくことになりました。

もしもここで王郎という“敵役”が登場しなければ、耿弇たちの運命はもしかしたら違ったものになっていたのかもしれないと考えるとちょっと想像が膨らみますね。

例文

他们只不过是乌合之众而已,还能干什么?

他们是一群乌合之众

敌军只不过是乌合之众的军队。

類義語

群龙无首( qún lóng wú shǒu ):一群の中に頭(または指導者)がいないこと

対義語

万众一心( wàn zhòng yī xīn ):大衆の心が一つになること、一致団結

团结一致( tuán jié yī zhì ):一致団結

【韓国語】오합지중(烏合之衆)

韓国語で「烏合の衆」は「오합지중」(烏合之衆)といいますが、英語では「羊飼いのいない羊」という?!

詳しい内容については以下の記事「오합지중」(烏合之衆)にまとめていますので、ぜひ読んでみてくださいね。

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「せいじん」さん - ネコ

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