【故事成語】卧薪尝胆( wò xīn cháng dǎn )

卧薪尝胆( wò xīn cháng dǎn):意味

臥薪嘗胆は「薪の上に臥し、苦い肝を嘗める」ということから、目的を成し遂げるために「自らの心身を苦しめて励み務めること」「長い間、刻苦精励すること」を意味します。

成し遂げる内容としては、大きな望みだけでなく、今回の故事成語にもあるように復讐を成し遂げるという場合でも使うことができます。

卧薪尝胆( wò xīn cháng dǎn):あらすじ

春秋時代、呉に敗れてしまった越王の勾践(こうせん)は、その屈辱を忘れないように苦い肝を嘗めては自らを奮い立たせて国力を充実させると、遂に呉を滅ぼしたという話。

卧薪尝胆( wò xīn cháng dǎn):故事

紀元前496年、越王の允常(いんじょう)が亡くなり新たに勾践(こうせん)が即位したのを好機とみた呉王の闔閭(こうりょ)は、越国に攻め入りましたが敗れてしまい、自らも矢で負った傷が原因で亡くなってしまいました。

闔閭は亡くなる直前に息子の夫差(ふさ)に勾践への復讐を誓わせると、3年後、再び越国を攻めて勾践ら5000の兵を会稽山で包囲すると、越軍は降伏、遂に越国は呉国の従属国となってしまいました。

そして、囚われの身となった勾践は、呉国で夫差に仕えるという屈辱を味わうことになりました。

夫差の臣下であった伍子胥(ごししょ)は今のうちに勾践にとどめを差すべきだと主張しましたが、越国から賄賂で買収されていた伯嚭(はくひ)の進言もあり、勾践を生かしておくことにしました。

勾践の従順な姿にすっかり警戒心を解いてしまった夫差は、3年後の紀元前490年、勾践を帰国させることにしました。

勾践は表向きは呉王に服従していましたが、ひそかに精兵を訓練して国内の充実を図りながら反撃の機会を虎視眈々と狙っていました。

そして、目先の安逸に浸り、雪辱を晴らす意志がなくなってしまうのを恐れた勾践は、座の所にぶら下げた苦肝をいつも見て過ごし、食事の時にも肝を嘗めることで過去の恥辱を忘れないようにしました。

その後、再び国力をつけた越国は、紀元前473年、ついに呉国を滅ぼし、長年の雪辱を果たすこととなりました。

出典《史記・越王勾践世家》

《史記・越王勾践世家》:“越王勾践反国,乃苦身焦思,置胆于坐,坐卧即仰胆,饮食亦尝胆也。”

今回の故事成語である「卧薪尝胆」( wò xīn cháng dǎn)の故事は、越国の興亡について記されている『史記』「越王勾践世家」に登場します。

『史記』とは司馬遷によって書かれた中国の歴史書のことで、五帝時代から前漢の武帝の時代の歴史について書かれており、二十四史のひとつでもあります。

一般的に「臥薪嘗胆」の故事は、この『史記』の「越王勾践世家」が出典になっているとされています。

「越王勾践世家」とは、越国の興亡について書かれているものですが、内容の大半は紀元前500年頃の時代を生きていた勾践の話になっています。

読んでみて分かるのは、この越国の勾践と呉国の夫差との争いのきっかけは、そもそもふたりの父親の代に始まったものであるということです。

ちょっと詳しく見ていきましょう。

「越王勾践世家」によると、越王勾践の祖先は夏禹の末裔で、夏朝の少康帝の子が会稽(現在の浙江省紹興市)を封じられて、夏禹の祭祀を継承していたとあります。

その後、20数代を経て允常が即位して越王となりましたが、隣国の呉王の闔閭とは非常に不仲であったことから、互いに相手の領土を攻めては攻め返されるということを繰り返していました。

そんな中、紀元前496年に越王の允常が亡くなると、その息子の勾践が即位し、それを好機と捉えた闔閭は越に侵攻しましたが「檇李(すいり)の戦い」で敗れてしまい、闔閭自身も弓矢によって負傷し、その傷が原因で亡くなってしまいました。

闔閭は亡くなる直前にあとを呉国を継ぐことになった夫差に、“尔而忘句践杀汝父乎?”(勾践がお前の父を殺したことをお前は忘れるのか)というと、夫差は“不敢!”(忘れません!)と答えました。(『史記』「呉太伯世家」より)

これにより、父親たちの代に始まった争いは息子の代にまで受け継がれることになり、後に呉国が滅びる遠因となるわけです。

闔閭のあとを継いで呉王となった夫差は、それから三年後に再び越国を攻めると、戦いに敗れて会稽山で包囲されてしまった勾践は降伏することとなり、越国は呉国の従属国になりました。

ここで勾践は自分の妻や子どもを殺して、国中にある宝器をすべて打ち壊そうとしましたが、文種の進言により呉国の太宰である貪欲で好色な伯嚭(はくひ)に宝器や美女を送ってなんとか取り込むことに成功すると、再び夫差と謁見することになりました。

文種は勾践を赦してくれるよう夫差に求めると、買収されていた伯嚭も勾践を赦すことは呉にとって有利であると発言し、夫差は勾践を赦すことにしました。

しかし、勾践を生かしておくことはいずれ災いの元になるとして、伍子胥(ごししょ)だけは強く反対していました。

その後、屈辱に耐えながらも呉国で仕えた勾践は、完全に安心しきって警戒心を解いてしまった夫差から赦されることになり、紀元前490年に越国に帰国することになりました。

これでおとなしく引き下がったかに見えた勾践でしたが、史記にはこう続きます。(以下、拙訳)

吴既赦越,越王句践反国,乃苦身焦思,置胆于坐,坐卧即仰胆,饮食亦尝胆也。曰:“女忘会稽之耻邪?”

(呉王は越王を赦した、越王勾践は帰国すると、苦心惨憺し、苦肝を座の所にぶら下げ、座臥しては肝を仰ぎ見、飲食の時も肝を嘗めた。そして曰く「お前は会稽の恥を忘れたのか」)

夫差の前では大人しくしていた勾践の腹の底には呉に対する復讐心が消えることなく残っていたこと分かります。まさに、面従腹背。

その後、国力を充実させた越国は、紀元前482年、呉が全国の精兵を派遣して「黄池之会」(黄池の会、黄池会盟)に参加している隙をついて侵攻しました。

呉国内には老兵弱兵1万しかおらず、呉軍はあっさり敗れてしまい、呉国の太子友も捕らえられ殺されてしまいました(焼死とも)

紀元前478年、勾践は再び呉国に侵攻すると、「笠澤の戦い」で呉軍を大敗させると、夫差らは少数の兵を率いて「姑蘇城」(現在の江蘇省蘇州)に逃げ込みました。

その後、数年にわたり包囲された姑蘇城は紀元前473年にとうとう陥落し、夫差は自害して呉国は滅びることになりました。

呉の滅亡は親子2代にわたって繰り広げられた数十年に及ぶ争いにようやく終止符が打たれたことも意味しました。

ここに登場する「置胆于坐,坐卧即仰胆,饮食亦尝胆也」「尝胆」(嘗胆)の部分が「臥薪嘗胆」のもとになったとされています。

出典《旧五代史・漢書・隠帝紀》

《旧五代史・漢書・隠帝紀》:朕所以尝胆履冰,废飧辍寐,虽居亿兆之上,不以九五为尊,渐冀承平,永安遐迩。

『史記』の「越王勾践世家」の他にもうひとつ「卧薪尝胆」という故事成語のもとになったとされているものに『旧五代史』「漢書・隠帝紀」があります。

『旧五代史』とは、北宋の薛居正(せつきょせい:912~981年)らによって編纂された歴史書のことで、唐滅亡後の五代十国時代に興亡した5つの王朝とその周辺国の歴史、つまり、後梁の開平元年(907年)から後周の顕徳7年(960年)に宋(北宋)が成立するまでが記されており、二十四史のひとつに数えられます。

もともとは『梁唐晋漢周書』といい、原本は既に逸失してしまっており、現存する『旧五代史』は清代に邵晋涵らが『永楽大典』などの文献から抜き出して編纂したものになります。

これは二十四史のなかでは唯一、他文献を用いて編纂した歴史書になります。

『旧五代史』は「梁書」「唐書」「晋書」「漢書」「周書」「志」「列伝」からなり、今回の故事成語である「卧薪尝胆」の故事の出典とされているのは後漢の歴史書である「漢書」の「隠帝紀」になります。

ちなみに五代十国時代の後漢は、三国時代前に存在していた後漢とは異なるので注してくださいね。(同じ劉姓ですが)

さて、「隠帝」とは後漢の第2代皇帝である「劉承裕」(931~951年)のことになりますが、ややこしくなるので以下、「隠帝」で統一します。

948年に父であり初代皇帝でもある高祖(劉知遠)が亡くなると、隠帝は若干17歳で即位することになりました。

しかし、臣下の郭威(かくい)が次々と功績を挙げていったことで勢いづき、それに危機感を抱いた隠帝はなんとか押さえ込もうとしましたが失敗、その後、21歳の若さで反乱軍によって命を奪われてしまい、そこで後漢は滅亡することになりました。

後漢に代わって郭威が新たに後周を建てると、自ら皇帝として即位することとなりました。

この「旧五代史・漢書・隠帝紀」もまた「卧薪尝胆」の出典とされていますが、そこにはどのように書かれているのか見てみましょう。

「朕所以尝胆履冰,废飧辍寐,虽居亿兆之上,不以九五为尊,渐冀承平,永安遐迩。」

ここで注目していただきたいのは「尝胆履冰」の部分です。

「臥薪嘗胆」の「嘗胆」は出てきたものの、「臥薪」ではなく「履氷」(氷上を歩く)となっています。

この一文は、乾裕2年(949年)に隠帝が大赦を実施した時に述べた言葉(中国語では「制書」といい、勅語や皇帝の御言葉の意)で、隠帝が書いた散文である『春令赦文』とほとんど同じ内容になっています。(間違っていたらご指摘願います)

「制書」は、新たな制度や政策の公布以外に、賞罰の実施や大赦の宣言などをする時にも用いられました。

また古代中国では、皇帝の即位や改元(年号が変わること)、新たな皇后や太子が立てられた時、あるいは大きな天災に見舞われた時に恩赦が実施されることがありました。

これにより政治犯などを除く罪人が釈放されることがあり、これを「大赦天下」と言いました。

乾裕2年(949年)は、まず前年に隠帝の父であり後漢初代皇帝の高祖(劉知遠)が亡くなり、また年号が「乾寧」から「乾裕」に変わっただけでなく、水害や蝗害も発生していたことから、前述した通りの理由でこの年に恩赦を実施して隠帝は「制書」を公布したのだと思われます。

実際、先ほどの「朕所以尝胆履冰,~」の前には次のような記述があります。(以下、拙訳)

「属以天道犹艰,王室多故,天降重戾,国有大丧,奸臣乐祸以图危,群寇幸灾而伺隙,力役未息,兵革方殷。」

「近頃思えらく、天道はなお難儀で、国家には変事多し、天は重戻(大きな災い)を降し、国には大喪あり、奸臣は禍を楽しみ危(不正)を図る、賊は災いを幸いし隙を伺う、討伐はやまず、戦まさに激し」

このことから、隠帝はこの年に大赦を実施したのだと思われます。

そのような度重なる国難に対して、隠帝は「尝胆履冰,废飧辍寐」(肝を嘗め氷上を歩き、食を忘れ寝を顧みない)という気持ちだったということなのだと思われます(私の解釈違いなら申し訳ありません)。

ちなみに『旧五代史』では「朕所以尝胆履冰,废食辍寝,~」となっているところは、『春令赦文』だと「尝胆卧薪」となっています。

しかし、一般的には臥薪嘗胆の出典とされてはおらず、また、『春令赦文』に出てくる「嘗胆臥薪」は、そもそも春秋時代の越王である勾践の時代から1400年以上も経った五代十国時代の隠帝の話ですから、勾践とはまったく関係ありませんし、臥薪嘗胆の故事の出典とは言えないと思われます。

ややこしいのでまとめると、臥薪嘗胆の故事の出典は『史記』になりますが、臥薪嘗胆という故事成語の出典は『史記』や『旧五代史』などになるということです。

あとで詳しく触れていきたいと思いますが、実際に「臥薪嘗胆」という言葉自体が初めて登場する文献は、北宋の時代に蘇軾(そしょく)によって書かれた『擬孫権答曹操書』とされています。

ちょっと深掘り

允常が亡くなってすぐに呉王の闔閭は越国に攻めて敗れてしまった訳ですが、この「檇李(すいり)の戦い」の戦闘で少し気になったところがあったので紹介したいと思います。

『史記』の「越王勾践世家」では檇李の戦いのところは「越王句践使死士挑战,三行,至吴陈,呼而自刭。」と文で描かれています。

つまり、「越王勾践は“死士”に3列に並ばせると、(彼らは)呉軍の前まで進み叫びながら自らの首を刎(は)ねた」とあります。

ちなみに、「死士」とは「決死隊、勇士」のことです。

越軍の兵士が急に目の前で自らの首を刎ねてしまう意味不明の行動に、何が起こったのか分からない呉軍の兵士たちは唖然としてしまいます。

そして、その隙に越軍は奇襲をかけて見事に呉軍を撃退したというわけです。

呉軍の兵士たちからしたら何とも不気味な光景だったに違いありません。

ちなみに『東周列国志』の「第七十九回 归女乐黎弥阻孔子 栖会稽文种通宰嚭」では、「死士」が突撃を敢行するも弓弩兵に撃退されてしまい、その次の日に、罪人によって構成された部隊が3列に並んで呉軍の目の前まで行くと自らの首を刎ねたとなっています。

貪欲な伯嚭

臥薪嘗胆の故事で欠かせない存在といえばやはり呉の太宰であった伯嚭ではないでしょうか。

貪欲で好色であったといわれる伯嚭は越から賄賂を受け取り、それにより悦夫烏勾践は赦されることになり越国は存続することになりましたが、それが結果として呉国の滅亡を招く遠因となってしまいました。

そんな伯嚭ですが、史書などにどのように描写されているのかということについて下の記事【臥薪嘗胆】伯嚭(はくひ)に送られた美女の数は8人?!に簡単にまとめていましたので、興味のある方は合わせて読んで見てくださいね。

例文

春秋时期,越王勾践卧薪尝胆,终于打败了吴王夫差。

(春秋時代、越王の勾践は臥薪嘗胆して、ついには呉王の夫差を打ち破った)

我们要学习她卧薪尝胆的精神。

(私たちは彼女の臥薪嘗胆の精神を見習わなければならない)

老师说要有卧薪尝胆的精神才会成功。

(臥薪嘗胆の気持ちがあってこそ成功できると先生が言っていた)

高中退学以后,我卧薪尝胆努力学习,终于成为了律师。

(高校中退後、悔しさをバネに頑張って勉強して、ついに弁護士になった)

以前她卧薪尝胆、奋发图强,可是现在每天呆在家不务正业。

(これまで彼女は臥薪嘗胆、奮起して努力してきたけど、今となっては毎日家でニートをしている)

類義語

奋发图强( fèn fā tú qiáng ):発奮して強くなる(“发奋图强”とも)

励精图治( lì jīng tú zhì ):政治に精励する、しっかりと国家を治める

対義語

胸无大志( xiōng wú dà zhì ):高い志がない

妄自菲薄( wàng zì fěi bó ):みだりにへりくだる、自卑する、極端に自分を過小評価する

【韓国語】와신상담(臥薪嘗膽)

「臥薪嘗胆」は韓国語では「와신상담」(臥薪嘗膽)といいます。

参照

『史記』「越王勾践世家」(維基文庫)

『旧五代史』「漢書・隠帝紀」(維基文庫)

『春令赦文』(維基文庫)

『東周列国志』「第七十九回 归女乐黎弥阻孔子 栖会稽文种通宰嚭」(維基文庫)

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