【臥薪嘗胆】呉滅亡の決め手となった「笠澤の戦い」(笠泽之战)

卧薪尝胆( wò xīn cháng dǎn):あらすじ

春秋時代、呉に敗れてしまった越王の勾践(こうせん)は、その屈辱を忘れないように苦い肝を嘗めては自らを奮い立たせて国力を充実させると、遂に呉を滅ぼしたという話。

「臥薪嘗胆」についてちょっと詳しくまとめた記事は下のリンクから読めますので、ぜひ読んでみてくださいね。

卧薪尝胆( wò xīn cháng dǎn):意味

臥薪嘗胆は「薪の上に臥し、苦い肝を嘗める」ということから、目的を成し遂げるために「自らの心身を苦しめて励み務めること」「長い間、刻苦精励すること」を意味します。

成し遂げる内容としては、大きな望みだけでなく、今回の故事成語にもあるように復讐を成し遂げるという場合でも使うことができます。

親子二代にわたる呉と越の戦い

日本語でもおなじみの「臥薪嘗胆」という故事成語の出典は『史記』「越王勾践世家」などになりますが、これは呉王の夫差に敗れた越王の勾践(こうせん)が呉を滅ぼすために、自らが受けた屈辱や復讐心を忘れないように苦い肝を嘗めたり、薪の上で寝ていたという話からきています。

「臥薪嘗胆」した勾践は約20年の歳月をかけて呉を滅ぼすことに成功するわけですが、呉が滅亡する遠因となった呉越両国の争いの発端は、そもそも彼らふたりの父親である呉王の闔閭(こうりょ)と越侯の允常(いんじょう)から始まりました。

「笠澤の戦い」に至るまでの呉越の歴史をざっくり振り返っていきましょう。

紀元前510年、呉王の闔閭は楚に侵攻する前に隣国の越を攻めて檇李(すいり:現在の浙江省嘉興市)を占領すると、その翌年には越侯の允常が呉の領土に侵攻したことで、両国の間に修復不可能な決定的な溝が生まれることになりました。

その後、紀元前506年に呉は伍子胥(ごししょ)を大将として「柏挙の戦い」で楚軍を潰走させると、楚の都である郢(えい)を占領しました。

楚は申包胥(しんほうしょ)が秦に援軍を依頼したことなどもあり、呉軍を郢から撃退することに成功し、その後、楚は呉を押さえ込むために隣国の越を援助し始めたことで越は国力が強大化、呉にとっては禍根を残すこととなりました。

紀元前496年に越侯の允常が病死すると、その子の勾践が即位、越侯を改めて「越王」と称するようになりました。すると、呉王の闔閭はこれを好機と捉えて越に大挙して攻め込んだものの檇李(すいり)で大敗を喫してしまい、闔閭自らも足に受けた矢傷が原因で陣没してしまいました。

闔閭は死の間際、子の夫差(ふさ)に自分の命を奪った者のことを忘れないように言い残して越への復讐を誓わせたことにより、父親の世代で始まった争いは子の代へと引き継がれることになってしまいました。

紀元前494年、呉王の夫差が父闔閭の仇を討つために越を討つ準備をしているという知らせを耳にした勾践は、範蠡(はんれい)などの反対を顧みずに機先を制して呉を攻めました。

対する夫差は精兵をもってこれを迎え撃つと「夫椒の戦い」(現在の江蘇省太湖周辺)で越軍を大敗させ、そのまま越の都である会稽(現在の浙江省紹興市)まで攻め込み占領すると、会稽山に逃げ込んだ勾践を包囲しました。

絶体絶命の危機に陥った勾践は範蠡の提案に従い、夫差に和睦を申し入れることにし、また呉の太宰である伯嚭(はくひ)には装飾品や美女などの賄賂を密かに贈ることで夫差に口添えしてもらえるように手配したことで、勾践はなんとか命だけは助けてもらうことができました。

伍子胥は今のうちに越を滅ぼしておかないといずれ後顧の憂いとなってしまうと考え夫差を誡めましたが、伯嚭による諫言や斉国との戦いのために北上を急いでいたこともあり、夫差は越と和を結んでしまいました。

その後、越は呉の従属国という立場に置かれることになり、勾践は約束通り夫差の“奴隷”となりました。日々の屈辱に耐えながらも、遂には夫差の信頼を得ることに成功すると、3年後に勾践は解放され帰国を許されることになりました。

帰国後の勾践は呉への復讐を誓うと、文字通り「臥薪嘗胆」の日々を送りながら民力を養うとともに、範蠡や文種(ぶんしょう)などを重用して国力の回復に努めながら呉討伐の機会を虎視眈々と狙っていました。

越に対する警戒心を緩めた夫差はその間、中原方面に注力すると他国に度重なる戦を仕掛けるとともに、あろうことか太宰の伯嚭の讒言を信じて伍子胥を自害に追い込んでしまうなど、状況は呉にとって好ましくない方向に向かっていました。

紀元前482年、太子友(呉の太子)など1万の老兵弱兵だけを呉に残したまま、夫差は精兵3万を率いて黄池(現在の河南省封丘県南西部)で諸侯との会合(黄池の会)を主催しました。この会合では晋公と指導者争いをしましたが、結局は覇者となることはできませんでした。

一方の勾践は、精兵がいないこの機に乗じて越軍約5万を二手に分けて呉に攻め入りました。範蠡率いる一隊は淮河の流れに逆行して進軍し、呉軍の黄池からの帰路を遮断、一方の勾践率いる主力軍は呉の都である姑蘇に侵攻しました。

呉の太子友は精兵がいないことから黄池からの援軍を待つべきだと主張しましたが、「王孫弥庸」は自ら5000の兵を率いて出陣し、越軍の先遣部隊を撃破して越軍武将の謳陽を捕らえたたものの(泓上の戦い)、勾践の主力軍が到着するにつれて包囲されてしまい撃破されてしまいました。

その後、越主力軍は姑蘇を攻めると太子友を捕らえて討ち取りました(一説では自害したとも)。

夫差が黄池から帰国すると都は既に陥落しており、兵士たちも疲労困憊で戦う余力がなかったため、太宰の伯嚭を派遣して越に和睦を申し入れると、越主力軍とは対照的に呉の主力軍は全くの無傷であったことから、勾践は和を結んで撤退することにしました。

笠澤の戦い(笠泽之战)

紀元前478年、呉では大飢饉が発生。勾践は文種の諫言により、その隙をついて5万の兵を率いて呉に侵攻することにしました。

これに先立ち、勾践の命令により賄賂を受け取り軍紀を乱した者、軍令や王の命令に従わない者を処刑し、呉越の国境近くの「御児」まで進軍すると今度は放埒な者を処刑しました。

また、他に兄弟がなく年老いた両親が健在の者、兄弟とともに従軍している者の中で帰郷したい者ひとり、目が悪い者は報告するように命令し、体が衰弱している者や志が低く素行不良のため命令を聞けない者は報告不要としました。

その後、臆病者とされる者は処刑され、これにより越軍はみな決死の覚悟ができると、勾践は命令に従わない者は一律に処刑し、その妻子も身売りに出すと命令しました。

その後、越軍が国境を越えて呉に侵攻したという知らせを聞いた夫差はすぐさま兵を起こすと、姑蘇の南にある「笠澤江」(現在の江蘇省蘇州市呉江区)を挟んで布陣する形となりました。

呉軍6万に対して越軍5万。総勢11万の両軍は両国にとって存亡の分岐点となる笠澤の戦い(笠泽之战)にいよいよ挑もうとしていました。

笠澤江を挟んで対峙した両軍は、嵐の前の静けさとばかりに一歩も動かず睨み合いが続きました。

日が沈み辺りが闇夜に染まると、それを待っていたかのように勾践は自軍に「句卒」(越の陣形のひとつ)の陣形をとらせると、越軍は兕(じ:水牛に似た一角獣)の革でできた鎧を身にまとい、鏃が石の弓矢と弩を装備する「句卒軍」を左右軍とする2隊と、有志により組織された勾践自らが率いる6000の「君子軍」を中軍とする計3隊に分かれました。

敵軍に気付かれないように太鼓は鳴らさず、兵士たちはみな枚(ばい)を銜(くわ)えながら一切の音を立てることなく、左句卒は川の上流側5里(約2.5㎞)の地点に、また右句卒は川の下流側約5里(10里とも)の地点に移動しました。

そして夜中になると、越軍の左右句卒は号令一下、太鼓を鳴らしながら前進を開始すると、川の真ん中あたりまで進軍しました。

対岸の左右から闇夜の静けさを切り裂くように轟く太鼓の音と敵軍が渡河してくる音に、越軍が挟撃してくるものだと思った呉軍はすぐさま自軍を3隊に分かれると、上下軍はそれぞれ左右に大きく展開して迎撃に向かいました。

中軍を残したまま左右に大きく展開していくのを好機と捉えた勾践は、君子軍の兵士たちに枚(ばい)を銜えさせると闇夜に紛れて渡河、対岸正面の敵中軍めがけて進軍を開始しました。

呉の上下軍がそれぞれ迎撃に向かったことで守備が手薄となっていた呉中軍は、目の前に突如として現れた勾践の君子軍の急襲を受けました。

呉の上下軍も中軍が攻撃されていることに気付いたものの既に手遅れで、押し寄せる越の左右句卒の猛攻に押されてしまい敗走。

その後、北へ撤退した呉軍は何度か態勢を立て直しては越軍と戦闘を繰り広げるものの、勢いづいた越軍の猛攻を防ぐことはできず一方的に敗北を重ねると、結局そのまま姑蘇まで撤退しました。

越軍にとっては数的に不利な戦いではあったものの、蓋を開けてみれば越軍は呉軍を撃破しただけでなく、呉の広大な領地も手中に収めるという圧倒的勝利に終わりました。

呉の滅亡と覇者となった勾践

紀元前475年、勾践は国を挙げて呉へ再び戦を仕掛けました。この頃の呉は長期にわたる戦争によりひどく活力が損なわれており、加えて青年の多くが戦死していたために越との軍事力の差は歴然で、結局のところ呉軍は姑蘇に撤退して死守するという選択肢以外ありませんでした。

対する越軍はというと、姑蘇の南西に城を築くことで兵糧攻めによる長期戦に持ち込むことにしました。

それから3年後の紀元前473年、姑蘇は遂に陥落し、夫差は包囲を突破して姑蘇山に逃げ込むと、何度か使者を送って和睦を申し入れたものの、(諸説はありますが)勾践は夫差を「甬東」(現在の浙江省舟山市)に島流しにしようとしますが、それを受け入れられなかった夫差は自害してしまいました。

これにより呉は滅亡することになり、半世紀近く続いた呉越両国の親子二代にわたる復讐に次ぐ復讐による戦いにようやく終止符が打たれることになりました。

呉を滅ぼした勾践は北方にある琅琊(ろうや)に遷都すると、斉や晋などの諸侯国と徐州(現在の山東省滕州市の南東)にて会盟すると、周王朝の元王は勾践を覇者として承認し、(書により違いはありますが)春秋五覇のひとりに数えられることになりました。

まとめ

今回は春秋時代の呉が越によって滅ぼされる決定的な戦いとなった「笠澤江の戦い」についてちょっとだけ詳しく調べてみましたがいかがだったでしょうか。

半世紀近くにわたって親子二代の復讐劇は越王の勾践が春秋五覇のひとりとなったということでめでたしめでたしという感じで現代の私たちは見ることはできますが、歴史書に名前すら登場しない当時の兵士や民たちからすると大変だったに違いありません。

ちなみに補足すると、呉越両軍が激突した「笠澤江」とは、現在の「呉淞江」(ごしょうこう)のことになります。

「蘇州河」とも呼ばれる呉淞江は、太湖からそのまま東に流れて行き、上海の外灘(ワイタン、バンド)にある「上海人民英雄記念塔」のところで「黄浦江」と合流する川になります。

江蘇省の太湖から遠くはるばる上海の黄浦江まで滔々と流れてくると考えると、どこか感慨深いものがあります。

私自身は中国の春秋時代や戦国時代、というか中国の歴史について詳しい人ではないので知識の整理がてらちょっとだけ深掘りしながら記事を書いているだけなので注意してくださいね。

三国時代ももちろん面白いですが、個人的にはさまざま犠牲の上にさまざまな思想が花開いただけでなく、現代でも使われているような故事成語や故事が誕生した春秋戦国時代にハマりそうな感じです。

現代では考えられないような血なまぐさい出口の見えない答えのない時代を我々と同じ人間たちが苦悩しながら必死に生きていた姿を、あくまでも歴史書や遺跡という形を通してですが、少しでも垣間見ることができるということに感動しています。

まだまだ知らないことがたくさんあるので、これからもどんどん中国の歴史や文化などについて学んでいきながら、面白いなと思ったことは記事にしてみなさんとどんどんシェアしていきたいと思います。

参照

・百度百科「笠泽之战」

・百度百科「吴淞江」

・维基百科「笠泽之战」

・维基百科「越灭吴之战」

・陶朱公-呉越戦争

・『中国历史上的越攻吴笠泽之战』

・『春秋战国时期的度量衡』(吴慧)

・『国語』「呉語・勾践滅呉夫差自殺」

・『呉越春秋』「勾践伐呉外伝第十」

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「miho」さん - パンダ

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