【故事成語】图穷匕见( tú qióng bǐ xiàn )

图穷匕见( tú qióng bǐ xiàn ):意味

图穷匕见( tú qióng bǐ xiàn:図窮匕見 )は、(巻物の)地図が開き終わって匕首(あいくち、小剣)が現れるということから、最後の局面になってようやく真相や真意がわかることという意味になります。

图穷匕见( tú qióng bǐ xiàn ):あらすじ

戦国時代、燕国の荊軻(けいか)という刺客が巻物の地図に隠していた匕首(あいくち)で秦国の秦王政(後の始皇帝)を暗殺しようとして失敗したという話。

图穷匕见( tú qióng bǐ xiàn ):故事

戦国時代、燕国の燕王喜は秦国と友好関係を築いており、その証として自身の子である燕太子丹(以下、太子丹)を人質として差し出していました。

その昔、太子丹と秦国の秦王政(後の始皇帝)はともに趙国の人質として趙の都である邯鄲で過ごしていたため交友関係がありましたが、太子丹が人質として秦国に差し出された時には秦王政は彼のことを冷たくあしらっていたと言われています。

そのため、そのことを恨んだ太子丹は燕国に逃げ帰ると、秦王政への復讐を誓うことになりました。

秦国がみるみる強大化していくことに燕国の行く末を案じた太子丹は、どうするべきかを鞠武(きくぶ)に相談したところ、鞠武はこう答えました。

「秦の地は天下に遍いており、韓、魏、趙を脅かしてはおりますが、易水より北は未だ平らげてはおりません、どうしてその恨みだけで秦の逆鱗に触れることができましょうか」

ではどうするべきかと迫る丹に、鞠武は「考えておきますので、どうぞお休みになっていてください」と答えました。

それからしばらくして、秦国から樊於期(はんおき)が燕国に逃げ込んできたため、太子丹はこれをかくまってあげました。

しかし、鞠武は「秦王政は残忍で、しかも燕国を恨んでおります、それでもみな恐れおののいているというのに、樊於期がここにいると知られたら尚更です。これは飢えた虎(秦)が通る道に肉を捨て置くようなものです」と諫言し、樊於期を匈奴へ追放した上で、事情を知る者の口封じをするべきだと献策しますが、樊於期に同情的だった太子丹は躊躇してしまいました。

また、周辺各国と連合して秦国に対抗すべきだとも主張しますが、太子丹はそんなに時間を費やしている暇はないとしてこれを退けたため、結局、鞠武は田光(田光先生)を推挙することにしました。

田光を迎えた太子丹でしたが、田光は「駿馬は若い時には一日に千里を駆けますが、老いてしまえば鴑馬(鈍い馬)のほうがこれより前を駆けます」と述べ、太子丹が耳にしているのは自分がまだ若かりし頃の話だとして、今度は荊軻を推挙しました。

太子丹は田光の帰り際に「先ほど話したことは国の大事に関わることだから内密に」と言うと、田光は頭を下げ笑いながらわかりましたと答えました。

その後、田光は荊軻のことを太子丹に推挙したことを荊軻本人に伝えると、荊軻はわかりましたと答えました。

すると田光は、太子丹が自分に話した相談内容をくれぐれも口外しないように言われたことに対して、それは太子丹が自分のことを疑っているということであるから、人に疑いを抱かせてしまうのは気節ある侠客とはいえないと言いました。

そして、太子丹にお会いする際には自分が死んだことによって国家の大事を口外しなかったことの証明にしてほしいと言い残すと、田光はそのまま自らの首を刎ねてしまいました。

田光は自分が死ぬことで荊軻を激励するつもりでしたが、田光の最期の言葉を荊軻から聞いた太子丹はがっくりと膝を落とすと、自分が田光に口外しないように言ったのは大事を成し遂げるためであって、その死をもって口外しなかったことの証明となすというのは自分の本意ではないと泣いて悲しみました。

太子丹は「今の秦国は野心に満ちており、天下をすべて手中に収め、すべての諸侯を自分に従わせない限り満足しないだろう、韓の地はすでに占領されてしまっており、楚国や趙国までもが秦国に降ってしまったら小国である燕国は国を挙げて戦ったとしても秦軍には敵わないだろうし、誰も燕国と連合しようともしないだろう」と言うと、荊軻に自身の考えを打ち明けました。

「秦国に天下一勇敢な者を遣わして、金銭財物で秦王政を誘惑すれば、こちらの意のままにできるに違いない。もし秦王政を脅迫することができれば、曹沫(そうかい)が斉桓を脅した時のように、占領した諸侯の土地をすべて返還させることができる。応じないようであればそのまま殺してしまえばいい。軍が国外に遠征している中で国内が乱れたとなれば、君臣は互いに疑いを持つだろう。これに乗じて諸侯が連合すれば必ずしや秦国を打ち破ることができるだろう。これが私の一番の望みであるが、これを誰に託したらよいのかわからないので、そなたに考えてもらいたいのだ」

これに対して荊軻は自分の能力では荷が重すぎるとして辞退しようとしましたが、太子丹の熱意に押されて引き受けることにしました。

その後しばらくの間、荊軻は何も行動に移すことはありませんでしたが、そうしているうちに秦国の将軍である王翦(おうせん)が趙国を打ち破ると、そのまま北進して燕国の国境まで迫って来ました。

秦軍が遅かれ早かれ易水を渡って攻めてくることに太子丹は怖れをなし、荊軻にすぐの対応を求めました。

すると荊軻は、秦王政を信用させるためには、懸賞金のかかっている樊於期の首級と、(割譲すると偽って)燕国の督亢(とくこう、河北省固安県、高碑店市一帯)の地図を献上する必要があるとし、そうすれば秦王政は喜んで自分と接見してくれるだろうと献策しました。

しかし、自分たちを頼ってきた樊於期の命を奪ってしまうことができない様子の太子丹をみて、荊軻は密かに樊於期に会って話をすることにしました。

秦により家族や同族を殺され、今となっては自身も懸賞金がかけられて追われる身となっている樊於期に、荊軻は今後どうするつもりなのか尋ねると、樊於期はどうしたらこの恨みを晴らせるのかと空を仰ぎ見ながら嘆きました。

すると、その姿を見ていた荊軻は、燕国の禍根を取り除き、樊於期の恨みを晴らすことができる方法があることを打ち明けました。

「そなたの首級が欲しいのです。秦王に献上すれば彼は必ず喜んで私と接見するでしょう。その時、私は左手で彼の袖を掴み、右手の匕首でその胸を突き刺すのです」

それに対して樊於期は、「秦への復讐は日夜腐心して悩み抜いてきた、今こうしてそなたの考えを聞けるとは」と言い残すと、そのまま自らの首を刎ねて自害してしまいました。

樊於期自害の知らせを聞いた太子丹はすぐさま駆けつけると、樊於期の死体を前にひどく悲しみましたが、ここまで来てしまった以上は後戻りはできなかったため、彼の首級を木箱に収めることしかできませんでした。

この時、太子丹は天下一の切れ味を持つ匕首を探し求めており、趙人の徐夫人から百金を叩いて手に入れていました。刃には毒を焼き入れており、試し切りをしてみると血をわずかに流すだけで、みなすぐに命を落としてしまいました。

燕国には12歳で人を殺めたことがあるという秦武陽という勇士がおり、彼と目を合わせようとする人はいませんでした。太子丹は秦武陽を荊軻の付き添いとすることにしました。

荊軻は遠方に住んでいるもうひとりの友人を待っていましたが、数日が経ってもなかなか出発しようとしない荊軻に、気が変わってしまったのかと疑った太子丹は秦武陽を先に行かせるように言うと、その言葉に気分を悪くした荊軻はすぐに出発することにしました。

太子丹と事情を知る者たちはみな白装束に身を包むと、荊軻を見送るために易水のほとりで道祖を祭り送別の宴を開きました。この時、高漸離が筑(古代中国の弦楽器)を撃ち、荊軻はそれに合わせて歌を歌うと、それを聞いてみな涙を流しました。

荊軻はゆっくりと前に歩き出てくると、「風蕭蕭兮易水寒,壮士一去兮不復還」(風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去りて復た還らず)と詠み終えると、荊軻はそのまま旅路につき、そのまま振り向くことはありませんでした。

秦国に到着すると、荊軻は千金に値する贈り物を携えて秦王の寵臣である蒙嘉(もうか)に接見しました。

蒙嘉はまず秦王政の前で「燕王は秦王の威勢を恐れているため秦に抵抗するつもりはなく、秦国の臣民となり、各諸侯と同列となることを望んでおられます。また秦国の郡県と同様に献上品を納めたいとのことですが、先王の宗廟を守ることだけは許して欲しいとのこと。燕王は秦王のことを非常に恐れており、自ら赴こうとはしなかったため、樊於期の首級と燕国督亢の地図を献上することとし、それらはみな木箱の中に納めております。燕王は使者を派遣して来ており、秦王に取り次いで欲しいとのこと」と聞こえのいい言葉を述べると、これを聞いた秦王政はとても喜びました。

そして、「九賓之礼」を設けると燕国の使者と咸陽宮で接見することになりました。

荊軻は樊於期の首級が入った木箱を、秦武陽は地図が入った木箱を携えながら順に中に入っていきましたが、秦王政の前まで来たところで秦武陽の表情は一変し、全身が震え始めました。

それを見た秦国の大臣たちは不思議に思うと、荊軻は秦王政に謝罪して「彼は北の未開の地の田舎者で、これまで天子にお目にかかったことがありませんので震えているのです。どうか大目に見ていただき、彼に務めを果たさせてください」と言い、なんとかその場を取り繕いました。

秦王政は「さあ、地図を持ってきてくれたまえ」と言うと、荊軻は秦武陽が携えていた地図を秦王政のところまで持っていくと、燕国の督亢が描かれた巻物の地図を広げ始めました。

地図はどんどんと開かれていき、開き終わったと思った次の瞬間、匕首がその姿を見せたかと思うと、荊軻は左手で秦王政の袖を掴み、右手に握った匕首を秦王政へ向けて刺し出しました。

しかし、刺し出した匕首は虚しく空を切ってしまいました。

驚いた秦王政はすぐさま身を翻すと、携行していた剣を抜こうとしましたが、長すぎたために鞘から抜くことができませんでした。

荊軻は秦王政を追いかけ始めると、秦王政は柱の周りをぐるぐると回りながら逃げることしかできず、また群臣たちも突然起こった出来事にみな狼狽してしまっていました。

それに秦国の法によれば、大臣は天子のおられるところではいかなる武器も携行してはならず、護衛の者は武器を携行することは認められているものの、秦王の命令なしに中に入ってくることが許されなかったため、荊軻が秦王政を追いかけているにもかかわらず群臣たちは反撃することができず、素手で捕らえるより他ありませんでした。

その時、天子の侍医である夏無且は持っていた薬袋を荊軻に向かって投げると、荊軻は一瞬ひるみました。

その隙に近くにいた者が「剣を背負われよ!」と秦王政に向かって叫ぶと、なんとか剣を抜くことができ、そのまま荊軻を斬りつけると、左ももを切り裂かれた荊軻はそのまま足がきかなくなってしまいました。

今度は匕首を秦王政に向かって投げつけましたが、わずかに外れてしまった匕首は柱に刺さってしまい、秦王政は荊軻をさらに斬りつけると、8カ所の傷を負わせました。

荊軻は暗殺に失敗したことを悟ると柱に寄りかかりながら大笑いし、「事を成せなかったのは、貴様を生け捕りにし脅迫することで奪われた領地の返還を約束させて太子に報告したかったからだ」と罵ると、そばにいた者が荊軻にとどめを刺しました。その後、秦王政はしばらくめまいがしていました。

後に秦王政は群臣に論功行賞を行った際に、「無且は私のことを大事に思っているからこそ、荊軻に薬袋を投げつけたのだ」と述べ、夏無且に黄金二百鎰(約3㎏)を下賜しました。

燕国に激怒した秦国は、趙国の旧地に軍を増派して王翦に燕国を攻めるよう命令すると、10月には燕国の都である薊を陥落させました。

燕王喜と太子丹らは精鋭部隊を率いて遼東に撤退しましたが、秦の李信がこれを追撃すると、焦った燕王は代王の趙嘉の提案で太子丹を殺害して秦国に献上しようとしましたが、秦軍はなおも攻撃を続けたため、5年後に燕国は滅亡し、燕王喜は捕らえられ、秦国は天下統一をしていくことになります。

その後、荊軻と親交の深かった高漸離は始皇帝(秦王政)の前で筑を撃つ機会に乗じて彼を暗殺しようと試みたものの、投げつけた筑は外れてしまい、そのまま殺されてしまいました。

出典《戦国策・燕策三》

《战国策·燕策三》:“秦王谓轲曰:‘起,取武阳所持图。’轲既取图奉之。发图,图穷而匕首见。”

今回の故事成語である「图穷匕见」( tú qióng bǐ xiàn )の故事は、前漢時代の劉向らによって編纂された『戦国策』「燕策三」に収録されている「燕太子丹質於秦亡帰」(燕太子丹秦より亡(に)げ帰る)に登場します。

ちなみに同様の話は『史記』の「刺客列伝・荊軻伝」にも記載されていますが、今回は『戦国策』を参考にしました。

荊軻(けいか)は戦国時代の燕国の刺客で、『史記』の「刺客列伝・荊軻伝」によれば衛国(現在の河南省あたり)の生まれで、衛国の人は彼のことを慶卿と呼んでいました。

書をよく読み剣術を好んでいたことから、衛国の元君に剣術を説いたものの聞き容れられなかったため、その後は燕国に赴くと荊軻と呼ばれるようになり、狗(いぬ)の屠殺人や筑(弦楽器の一種)の名手である高漸離(こうぜんり)と酒を酌み交わすようになりました。

高漸離が撃つ筑に合わせて市中で歌っては人目もはばからず声を出して泣いていた様子が『史記』の同伝には「傍らに人無きが如し」と記述されていることから、日本語でもおなじみの「傍若無人」という成語が誕生することになりました。

酒を飲みながら傍若無人ぶりを発揮していた一方で、各国を旅している時には各地の賢人や豪傑とも交流があり、燕国に着いてからも田光(田光先生)にその非凡さを理解してもらっていたとされています。

そんな中、秦国に人質として送られていた燕太子丹(以下、太子丹)が燕国に逃げ帰って来るという出来事が、荊軻のその後の人生を刺客の道へと舵を切らせていくことになっただけでなく、ひいては燕国滅亡に導いていくことになっていきます。

あとは上述の故事の通りに話は展開していき、秦王政の暗殺が失敗に終わってしまいます。

秦国により攻められてしまった挙げ句に、太子丹は和議の材料として自分の父親によって命を奪われてしまいますが、もとより太子丹のことを軽んじていたとされる秦王政は和議を受け入れるはずもなく、その後も追撃を受けた燕国は紀元前222年に滅亡してしまいます。

ちょっと深掘り

高漸離が荊軻と酒を酌み交わしながらよく撃っていた「筑」(ちく)という中国の打弦楽器についてですが、いったいどういう楽器なのでしょうか。

筑は形が琴に似ているものの(実際にはクリケットバットのような形)、琴や箏のように弾奏するのではなく、左手で弦を押さえて右手に持った竹の棒で叩きながら(撃ちながら)演奏します。

弦の本数については文献によって異なるようで、5本、13本、21本と記述されているようです。また、琴や箏は普通は体に対して横向きに置いて演奏しますが、筑は形こそ琴などに似ていますが、体の正面に縦に置いて演奏するようです。

筑は中国の戦国時代から隋唐の時代まで広く流行していましたが、宋代以降はより豊かに音を表現できる琴や箏に取って代わられてしまい廃れたとされています。

一説では、朝鮮の伝統楽器である「コムンゴ」(거문고:玄琴、玄鶴琴)の誕生に影響を与えたと言われており、朝鮮の三国時代について書かれた『三国史記』によれば、コムンゴ(玄琴、玄鶴琴)は高句麗の第24代君主である陽原王の宰相だった王山岳が中国の晋人によって持ち込まれた古琴を改造して作ったとされています。

その晋人が持ち込んだとされるのが筑だとも言われているようですが、『三国史記』には「晋人が“七弦琴”を高句麗に送った」と記述されていることから、本当にその古琴が筑だったのか真偽のほどは定かではありません。

この筑の名手だったのが高漸離で、市中で荊軻たちとお酒を飲みながら撃っていた様子も『史記』の「荊軻伝」には記載されており、その後、高漸離自身も鉛を仕込んだ筑を秦王政に投げつけて暗殺を図りますが失敗に終わってしまいます。

個人的に、この太子丹は燕国を滅亡へと導くきっかけとなった人物だと感じているのです。『戦国策』を読む限りでは人材に恵まれていたようにも見えますが、どうも自身の怒りや焦りなどによって肝心なところで決断を誤っているように感じてしまいます。

特に、暗殺のため秦国に出発する前、なかなか出発しようとしない荊軻をみた太子丹が「あれ、心変わりしちゃった?」と疑ってしまったため、結果として、もともと遠方からやって来た友人を付き添い人として連れて行こうとしていた荊軻を急かして怒らせてしまったことは失敗だったように思います。

荊軻が付き添い人として連れて行った秦武陽は、暗殺直前には恐怖なのか緊張なのか分かりませんがブルブル震えていただけでなく、荊軻が狙いを外してしまい秦王政を追いかけ回している時にも何かしたという様子もなかったことから、これでは付き添った意味がなかったという評価が下されてもしかたありません。

もし、付き添い人として荊軻の友人を連れて行っていたとしたら暗殺は成功して、その後の歴史をかなり大きく変えたに違いありませんが、それも天意だったのかもしれません。

例文

我以为她是我最好的朋友,但是没想到,我一遇到困难她就图穷匕见离开我。

(彼女のことを一番仲のいい友人だと思っていたのに、私が困難に打ち当たると私から去って行ってしまうとは)

战争即将结束的时候,那个国家图穷匕见,开始侵略我国领土。

(戦争が間もなく終わろうとしている時、その国は急に手のひらを返し、我が国を侵略し始めた)

图穷匕见!说着说着,她突然劝我入某某教!

(ついに本音が!なんだかんだ話をしているうちに、彼女に突然モウモウ教の入信を勧めらた!)

類義語

东窗事发( dōng chuāng shì fā ):悪事が露見する、悪事がばれる

原形毕露( yuán xíng bì lù ):化けの皮がすべて剥がれる、正体がばれる

不打自招( bù dǎ zì zhāo ):語るに落ちる、何気なく話しているうちに自分で悪事をばらしてしまう

対義語

显而易见( xiǎn ér yì jiàn ):明らかに分かる、はっきり見える、見え透いている、火を見るより明らかである

参照

『戦国策』「燕策三」(維基文庫)

『史記』「刺客列伝・荊軻伝」(維基文庫)

「图穷匕见」(百度百科)

「荊軻」(Wikipedia)

「高漸離」(Wikipedia)

「戦国策」(Wikipedia)

「筑」(Wikipedia中文)

荊軻と「傍若無人」

燕国に赴いた荊軻は、筑の名手だった高漸離と知り合いになり、市中で酒を酌み交わしながら歌を歌っては人目もはばからずに泣いていた様子が『史記』の「刺客列伝・荊軻伝」に記載されています。

その様子について「傍らに人無きが如し」と書かれているところから、日本語でもおなじみの「傍若無人」という故事成語が誕生しました。

故事成語「旁若无人」についてちょっと詳しく解説している記事旁若无人( páng ruò wú rén )もぜひあわせて読んでみてくださいね。

荊軻にとどめを刺したのは誰?

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「せいじん」さん - ネコ

「miho.panda」さん - パンダ

「まむのすけ」さん - 黒猫のフレーム

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5件のコメント

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