【图穷匕见】荊軻にとどめを刺したのは誰なのか

图穷匕见( tú qióng bǐ xiàn ):意味

中国語の故事成語である「图穷匕见」( tú qióng bǐ xiàn:図窮匕見 )は、「(巻物の)地図が開き終わって匕首(あいくち、小剣)が現れる」ということから、「最後の局面になってようやく真相や真意がわかること」という意味になります。

图穷匕见( tú qióng bǐ xiàn ):あらすじ

戦国時代、燕国の荊軻(けいか)という刺客が巻物の地図に隠していた匕首(あいくち)で秦国の秦王政(後の始皇帝)を暗殺しようとして失敗したという話。

秦王政暗殺未遂

戦国時代末期、人質として秦国に送られていた燕太子丹が自身が冷遇されたことに腹を立てて燕国に逃げ帰ってきました。

長平の戦い以降、秦国による中国統一の流れを止めることはもはや不可能となり、燕国も秦国に呑み込まれてしまうのは時間の問題となっていました。

そんな各国の状況と自身が秦国で受けてきた冷遇の恨みを晴らすため、何としてでも秦王政(後の始皇帝)に復讐をしたかった燕太子丹は一計を案じることにしました。

それは、秦国に人を送り込んで秦王政を脅迫することにより今まで秦国が諸侯から奪った領土を返還するよう脅迫し、もしも秦王政がその脅迫に屈しないようであれば、そのまま暗殺してしまえばいいというものでした。

そこで白羽の矢が立ったのが燕国の田光(田光先生)と親交のあった荊軻(けいか)という人物でした。

計画を実行するにあたって荊軻はまず2つのものを準備するように提案しました。

まずは、秦国から燕国に逃げ込んできていた樊於期(はんおき)の首級。

もうひとつは、秦国に献上すると偽った督亢(とくこう)という領地が描かれた巻物の地図。

荊軻はこれらのものを準備すると、燕太子丹が趙国の徐夫人から百金をはたいて手に入れた天下一といわれる匕首(あいくち、小剣のこと)を携えて、秦武陽(しんぶよう)という若者を付き添い人として秦国に向かいました。

樊於期の首級を燕国の使者が持ってきたことを聞いて大喜びした秦王政は、荊軻たちを迎え入れました。

すると、緊張なのか恐怖なのか、付き添い人として一緒に来ていた秦武陽が突如として震え出すと、周囲でそれを見ていた大臣たちは不思議がりましたが、荊軻は彼が田舎者なので緊張しているのだとしてその場をなんとかしのぎました。

そして、秦王政から地図を持ってくるように言われて荊軻は地図を秦王政の目の前に持っていきました。

巻物の地図が開かれていくと(秦王政自らが開いたのか、それとも荊軻が開いたのかは文献によって異なる)、巻物から匕首がやにわに姿を現しました。

荊軻は左手で秦王政の袖を掴むと、右手に握った匕首で秦王政に向かって突き刺しました。

すぐに身を翻した秦王政はそれをすんでのところで躱すと、携帯していた剣で応戦しようとしましたが、長剣だったために鞘を掴んでしまい抜くことができませんでした。

秦王政は柱の周りをぐるぐると逃げながら荊軻はそれを追いかけましたが、大臣たちは恐れおののきその様子を見ているだけで誰も助けようとはしませんでした。

というのも、当時の秦国の法律では群臣たちは殿堂の中で武器を携帯してはならず、殿下(殿堂の階段下)で待機している護衛の者も王の命令がない限りは中に入ってくることはできませんでした。

その時、王の侍医である夏無且は持っていた薬袋を荊軻に向かって投げると、荊軻は一瞬ひるみました。

そして、「剣を背負われよ!」の言葉に秦王政は剣を背中の方に回すと、なんとか剣を抜くことができると、そのまま荊軻の左太ももを斬りつけました。

足がきかなくなった荊軻は匕首を秦王政目がけて投げつけましたが外してしまい、柱に突き刺さってしまいました。

秦王政にさらに斬りつけられた荊軻は暗殺が失敗に終わったことを悟ると、秦王政を罵った後に、とどめを刺されてしまいました。

その後、激怒した秦王政は燕国を攻め滅ぼしていくことになります。

誰がとどめを刺したのか

暗殺に失敗してしまった荊軻は、最期に秦王政を罵るとそのままとどめを刺されてしまいますが、ではいったい誰が荊軻にとどめを刺したのでしょうか。

そこで、『戦国策』と『史記』、さらには清代の長編歴史小説である『東周列国志』にどのように書かれているのかみてみると、荊軻にとどめを刺したのは「左右」であったと書かれています。

ひとまず、それらがどのように記述されているのか、拙訳で申し訳ないですが原文と訳文を見てみましょう。

■『戦国策』「燕策三」(以下、拙訳)

「左右既前斩荆轲」

「左右既にして前(すす)みて荊軻を斬る」

「側近の者はすぐに進み出ると荊軻を斬った」

■『史記』「刺客列伝・荊軻伝」(以下、拙訳)

「於是左右既前杀轲」

「ここにおいて左右既にして前(すす)みて軻を殺す」

「こうして側近の者はすぐに進み出て荊軻を殺した」

■『東周列国志』「107回」(以下、拙訳)

「左右争上前攒杀之」

「側近の者たちは我先に前に進み出て群がりこれを殺した」

この「左右」という言葉は一般的には「左と右」のことを指しますし、「~を左右する」のように「どちらか一方に決めること」という意味にもなります。

それは中国語でもそうですが、中国語の場合はそれ以外にも数量詞の後につけることによって「~くらい、~ほど」という意味にもなります。

そしてこの「左右」という言葉には他にも意味があって、そのうちのひとつに「側に仕える者、側近」という意味があります。

このことから、荊軻にとどめを刺したのは「左右の者」、つまり側近たちだったということがわかります。

どうやってとどめを刺したのか

では、どうやってとどめを刺したのでしょうか。

『史記』や『東周列国志』には荊軻にとどめを差した場面については「殺」という字で表現されているだけで、これでは具合的にどのような方法だったのかわかりません。

そこで『戦国策』のほうを見てみると、「斬」という字が使われています。

「斬」は「刃物で切る」や「斬り殺す」という意味になることから、荊軻にとどめを刺した人たちは刃物で斬りつけてとどめを刺した可能性が高いと思われます。

しかし、ここで疑問が出てきます。

荊軻にとどめを刺したのが「左右」、つまり側近の者たちだったということがわかりましたが、ではそれは具体的にはいったいどういう人たちだったのでしょうか。

というのも、当時の秦の法律では殿堂の中ではいかなる者も武器を携帯してはならないと定められていたと言われており、また護衛の者も殿下、つまり殿堂に上がる階段の下で待機していなければならず、命令なしに殿堂に入ってくることはできなかったとされています。

実際、秦王政を追いかけ回していた荊軻の動きを一瞬ひるませたのが、侍医だった夏無且が投げた薬が入った袋だった訳ですから、この時点で荊軻に対抗できるだけの武器を持った人が側にいなかったことがうかがい知れます。

そして、そのひるんだ隙に側近の誰かが秦王政に対して「剣を背負われよ!」と叫んだことで、剣を抜くことができた秦王政は自ら荊軻に応戦・反撃できたということになるわけです。

そう考えると、武器を携帯できなかった群臣たちがとどめを刺したとは考えられませんから、護衛の者が秦王政の命令を受けて殿堂に駆け上がってきたのではないのかと思われます。

ただ、秦王政が護衛たちに中に入ってくるよう命令した記述はないため、これはあくまでも私の憶測になってしまいますが。

参照

『戦国策』「燕策三」(維基文庫)

『史記』「刺客列伝・荊軻伝」(維基文庫)

『東周列国志』「107回」(維基文庫)

【故事成語】图穷匕见( tú qióng bǐ xiàn )

荊軻が秦王政を暗殺しようとしたところから誕生した中国語の故事成語「图穷匕见」( tú qióng bǐ xiàn )は下の記事でちょっとだけ詳しく解説していますので、興味のある方はぜひあわせて読んで見くださいね。

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