【故事成語】四面楚歌( sì miàn chǔ gē )

四面楚歌( sì miàn chǔ gē ):意味

日本語の四字熟語としてもおなじみの中国語の四面楚歌( sì miàn chǔ gē )は、敵に囲まれて孤立し、助けがないこと周囲の人たちが反対者ばかりであること孤立無援の窮地に陥っていることという意味になります。

四面楚歌( sì miàn chǔ gē ):あらすじ

劉邦率いる漢軍などによって包囲された項羽が、四方八方から聞こえてくる楚国の歌を聞いて驚いたという話。

四面楚歌( sì miàn chǔ gē ):故事

秦末期の紀元前210年、始皇帝がついに亡くなると、趙高らの策略によって始皇帝の長子である扶蘇(ふそ)が死に追い込まれ、代わりに末子の胡亥(二世皇帝、秦二世)が新たな皇帝として即位することになりました。

しかし、その翌年の秦二世元年(紀元前209年)7月には秦の厳格な法律によって追い詰められた農民らが反乱を起こし(陳勝・呉広の乱、または大澤郷起義)、それを皮切りに各地で反秦の動きが加速していくことになりました。

その後、反秦の戦いは項梁に引き継がれることになり、反秦軍の名目上の盟主である楚の懐王(義帝)が「咸陽に一番乗りした者を関中の王とする」という「懐王之約」を公布すると、各諸侯は我先に関中を目指すことになりました。

そして、漢元年(紀元前206年)に劉邦が関中に一番乗りを果たすことになり、同年10月には秦王の子嬰が降伏したため、ここに秦は事実上滅亡することになりました。

関中に一番乗りした劉邦でしたが、圧倒的な軍事力を背景に主導権を握った楚の項羽により関中王になるという約束は反故にされてしまい、漢中(現在の四川省一帯)を封じられて漢中王になりました。

漢2年(紀元前205年)、項羽が斉征伐に苦戦している隙を突く形で劉邦は関中を手中に収めると、さらに各諸侯を味方に引き入れながら東進して項羽の本拠地である彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指すと、劉邦率いる50万を超す連合軍は彭城に入城しました。

彭城に入城した連合軍でしたが、そこで略奪や暴行の限りを尽くし、それに激怒した項羽は斉から精兵3万を率いて彭城に引き返すと、完全に油断しきっていた連合軍は大敗を喫してしまいました(彭城の戦い)。

何とか滎陽(現在の河南省滎陽市)まで逃げ延びた劉邦は、その後は項羽軍に包囲されてしまいますが、計略を用いて何とか包囲から抜け出すと関中まで引き返して態勢を立て直すことにしました。

そして、滎陽の北にある広武山で劉邦と項羽の両軍は再び対峙する形となりましたが、長期化により食糧が尽きたりなどしたため天下を二分することを約してそれぞれの本拠地に帰還することになりました。

ここで劉邦軍は部下の進言により項羽軍を背後から襲おうとしたものの、加勢するはずだった韓信と彭越の両軍はともに動こうとせず、その間に劉邦軍の異変を察知した項羽軍も反撃してきたため、劉邦軍は大打撃を受けてしまいました。

劉邦が韓信と彭越に戦後の恩賞を約束したことによりようやく両軍は出陣し、他の諸侯も次々と劉邦に合流して垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に集結しました。

項羽率いる楚軍は垓下の砦にこもっていましたが、兵は少なく食糧も尽き、劉邦率いる漢軍と諸侯らはこれを幾十にも包囲しました。

夜になり四方を取り囲む漢軍が楚歌を歌っているのを耳にした項羽は、「漢はすでに楚を得たというのか、(敵の中に)楚人のなんと多いことか」と驚きました。

項羽にはいつもそばに付き従わせている虞という美人(寵姫)がおり、また騅(すい)という駿馬がいて、項羽はいつもこれに乗っていました。

項羽は悲歌を歌い嘆き、自ら詩を詠みました。

「力抜山兮氣蓋世(力山を抜き気は世を蓋う)

時不利兮騅不逝(時利あらず騅逝かず)

騅不逝兮可奈何(騅逝かざる如何すべき)

虞兮虞兮奈若何(虞や虞や若を如何せんと)」

数回繰り返して歌うと、虞美人もこれに合わせて詩を作りました。

項羽ははらはらと涙を流すと側近の者たちもみな涙し、項羽の顔を仰ぎ見ることができる者は誰ひとりとしていませんでした。

その後、項羽は800あまりの騎士を引き連れると闇夜に乗じて包囲を突破して南下。

明け方になり項羽がいないことに気付いた劉邦は、灌嬰に5000の騎兵でもって追撃をかけさせました。

項羽が淮水を渡る頃には手勢は100騎あまりしか残っていませんでした。陰陵(現在の安徽省定遠県北西)まで来ると道に迷ってしまった項羽はある農夫に道を尋ねると、その農夫は“左だ”と答えました。

果たして、項羽たちは農夫の言うとおりに左の方へ行くとそこは沼になっており、これによって劉邦の追っ手に追いつかれてしまいました。

項羽は東に向きを変えると東城(現在の安徽省定遠県南東)に到着しましたが、この時すでに手勢は28名になっていました。対する追っ手は数千。

そして、項羽は残された騎士たちに言いました。

「兵を起こしてから8年あまり、70あまりの戦をしてきたが、敵対したものは打ち破り、攻撃したものは征服し、これまで敗れたことはなく、ついには天下に覇を唱えるに至った。しかし今となってはここで苦境に立たされている。これは天が我を滅ぼそうとしているのであって、戦のせいではない。今日はもとより死を覚悟している、皆には思う存分に戦ってほしい。何としてでもこれに三度勝ち、将を斬り、旗を倒し、天が我を滅ぼすのであって、戦のせいではないということをそなたたちに知らせよう」。

そして、騎士を4隊に分け四方を向かせると、漢軍はこれを幾十にも取り囲んでいました。

項羽は他の騎士に「我は将をひとり討ち取る」と言うと、彼らを四方に向かって進ませると、山の東側で3カ所に分かれて落ち合おうと約束しました。

項羽は叫びながら馬を走らせると、漢軍はみな敗走し、漢の将ひとりを討ち取りました。この時、郎中騎都尉だった楊喜は項羽を追撃していましたが、それを見た項羽が睨みつけ怒鳴ると、楊喜たちは驚きのあまり尻込みして数里も後退しました。

漢軍は項羽の居場所がつかめず軍を三隊にわけて取り囲もうとしましたが、項羽はさらに都尉ひとりと兵数百人を討ち取ると、対する項羽側は2騎を失っただけでした。

項羽は他のものたちに「どうだ」と聞くと、みな「王の言うとおりにございます」と答えました。

その後、項羽は烏江を東へと渡ろうとしていました。烏江の亭長は船を準備して待っており、項羽に言いました。

「江東は小さいながらも地は千里、民の数は十万になる、王となるには十分です。早くお渡りになってください。今船があるのは私だけですので、漢軍が来ても渡ることはできません」。

項羽は笑いながら答えました。

「天が我を滅ぼすというのになぜ渡る必要があろうか。それに我は江東の子弟8000とともに江を西に渡ったが、今となっては誰ひとりとして帰る者はいない。仮に江東の父兄が我を憐れんで王としてくれたとしても、どのような面目で彼らと会うことができようか。彼らが何も言わなかったとしても、どうして我が恥じ入らないことがあろうか」。

項羽はさらに続けて言いました。

「我はそなたが有徳の者であると理解した。我はこの馬に5年乗っていたが、向かうところ敵なし、これまで一日に千里を走ったことがある。これを殺すには忍びないから、そなたに差し上げよう」。

すると、項羽は騎士たちを馬から下ろさせると、敵中に斬り込んで行き、項羽はひとりで漢軍兵士を数百人を討ち取りましたが、項羽自身も10数カ所に傷を負ってしまいました。

項羽はあたりを見回すと、敵兵の中に騎司馬の呂馬童がいるのを見つけ、「そなたは昔なじみではないか」と言うと、馬童は顔を背けると王翳を指さしながら「これが項王だ」と言いました。

項羽は、「漢は我が首に千金と一万戸の領地を懸けていると聞く、そなたに恩徳を施そう」と叫ぶと、自らの首を刎ねて自害しました。

王翳がその首を取ると、手柄となる項羽の死体を手に入れようとして他の兵士たちは互いに踏みつけ殺し合いながら争い、数十人が犠牲になりました。

その後、項羽の死体は郎中騎の楊喜、騎司馬の呂馬童、郎中の呂勝と楊武で分け合うことになりました。

こうして楚の地は彼ら5人に分けられ、呂馬童は中水侯、王翳は杜衍侯、楊喜は赤泉侯、楊武は呉防侯、呂勝は涅陽侯にそれぞれ封じられました。

項羽が亡くなると楚はみな漢に降伏しましたが、魯だけが一向に降りませんでした。これに対して劉邦は魯を攻め滅ぼそうとしましたが、項羽の首を持って行き見せると、魯はようやく降伏することになりました。

初め、楚の懐王が項羽を魯公に封じたことから、その死によって魯が最後に降ることになり、それ故に項羽を魯公として谷城に葬りました。劉邦は葬儀を執り行って弔うと、これを哀しんで帰って行きました。

劉邦は項氏一族を滅ぼすことはせず、項伯を射陽侯に封じました。桃侯(項襄)、平皋侯(項它)、玄武侯(不明)はいずれも項氏であり、その後、劉姓を賜りました。

出典《史記・項羽本紀》

“项王军壁垓下,兵少食尽,汉军及诸侯兵围之数重。夜闻汉军四面皆楚歌,项王乃大惊,曰:‘汉皆已得楚乎?是何楚人之多也。’”

今回の故事成語である「四面楚歌」( sì miàn chǔ gē )の出典は、前漢の司馬遷による『史記』「項羽本紀」になります。

「項羽本紀」とは項羽の生涯について書かれたものになります。

項羽は姓を項、名を籍、字を羽といい、“項羽”と呼ばれるのが一般的だと思いますが、『史記』では“籍”“項王”“項籍”と記載されていることが多いです。

項羽は戦国時代の楚の将軍だった項楚の孫にあたり、幼い頃は叔父の項梁に養われていました。

『史記』の「項羽本紀」によると、項羽は書や剣術を習っていたものの習得することができず、これに対して項梁は怒りますが、文字は自分の名前だけ書ければ十分だと言った項羽に、項梁は兵法を教えると喜んだとされています。

また、身長は8尺あまりあったと記載されており、秦・前漢当時の1尺はおよそ23㎝であったことから、項羽の身長は2m近くあったことになります(Wikipediaなどには約2.5mと記載)。

その後、紀元前210年に始皇帝が亡くなり、その翌年の秦二世元年の7月に陳勝・呉広の乱が起こると、項羽は会稽郡の役所で郡守の殷通を殺害し、項梁は会稽郡守に、項羽はその副将となりました。

その後は“反秦”の戦いのために各地を転戦し、やがて楚の懐王が「咸陽に一番乗りした者を漢中王にする」と宣言したため、漢元年(紀元前206年)に項羽は咸陽入りを果たそうとしますが、これより先に劉邦がすでに咸陽に入っていました。

これに激怒した劉邦ですが、叔父の項伯の説得などもあって劉邦に申し開きのための席を設けさせました(鴻門の会)。

項羽はここで劉邦を殺害しようと企てますが失敗し、千載一遇の機会を逃してしまうことになり、その後、楚漢戦争が本格的に始まっていくことになります。

ちょっと深掘り

今回の故事成語である四面楚歌ですが、この“楚歌”とはいったいどういう歌なのか疑問に思ったことはないでしょうか。

楚歌という言葉を辞書で引いてみると、「古代中国の楚国の歌」「楚の地方の調子の歌」と載っており、また、『新漢語林』には四面楚歌の故事から「敗北の歌」という意味もあるとも載っています。

この楚歌とは、秦末から漢初にかけて流行し、代表作には項羽が垓下の戦いの時に虞美人に贈った『垓下歌』や、天下統一後に反乱を起こした淮南王の英布(黥布)との戦いの後、その帰途に立ち寄った故郷の沛で詠んだ劉邦の『大風の歌』があります。

ちなみに、『大風の歌』は中国語では『大風曲』『大風詩』『漢祖有歌』とも言います。

楚歌の特徴としては、歌中に楚音である「兮」( xī )を多く用いたり、句は主に七言や四言からなるのが特徴になります。

また、『史記』の「留侯世家」で劉邦が『鴻鵠歌』を詠う場面では、戚夫人に対して「為我楚舞、吾為若楚歌」(我が為に楚舞せよ、吾なんじが為に楚歌せん)と言ったことから、楚歌とともに“楚舞”が舞われていたと考えられています。

最後に、項羽が川を渡るために船を準備してくれていた「亭長」についてちょっとだけ詳しくみていきたいと思います。

まず、「亭」とは戦国時代初め頃から他国との国境に設置され始めたもので、敵の監視をするなど防衛の任にあたらせ、亭には亭長が置かれていました。

その後、秦や漢代になると道の10里(約5㎞)ごとにひとつの亭が設置されるようになり、その亭の長のことを亭長といいました。

亭は治安維持や旅客の宿泊などを担当し、兵役を終えた者がその任に就くことが多かったとされています。

盗賊の逮捕・取調べ、省門の守備など警察の任にあたっていたことから、亭は現代で言うところの警察署、亭長は警察署長と言ってもいいかもしれません。

ちなみに、漢の劉邦もかつては沛の泗水で亭長を務めていたことが『史記』の「高祖本紀」に書かれています。

亭は後漢以降に廃止されていきました。

例文

项羽听到四面楚歌,他的斗志被瓦解了。

(周囲の敵の楚歌を聞いた項羽は、その闘志を打ち砕かれてしまった)

使敌人陷于四面楚歌的绝境

(敵を四面楚歌の窮地に陥れる)

这样下去,我们最后一定会陷入四面楚歌的境地。

(このままだと私たちは遂には四面楚歌に陥ってしまうだろう)

在这四面楚歌的情况下,她没有别的办法。

(この四面楚歌という状況で、彼女はどうすることもできない)

在这四面楚歌的环境中,我们该怎么办呢?

(この四面楚歌という中で、私たちはどうするべきだろうか)

類義語

左右为难( zuǒ yòu wéi nán ):窮地に陥る、進退窮まる

进退两难( jìn tuì liǎng nán ):にっちもさっちもいかない、進退窮まる

危机四伏( wēi jī sì fú ):(四方に伏兵が潜んでいることから)あらゆるところに危険や災いが潜んでいる

十面埋伏( shí miàn mái fú ):(垓下の戦いより)あちこちに伏兵がいること、袋の中の鼠にする、袋の鼠にする

腹背受敌( fù bèi shòu dí ):腹背に敵を受ける、前後から攻撃される

十日并出( shí rì bìng chū ):(中国神話で古代太陽が10個あったことから)暴動が一斉に起こること

対義語

安然无恙(  ān rán wú yàng ):無事である、息災である

左右逢源( zuǒ yòu féng yuán ):(至る所に水源が見つけられることから)万事順調にいく

如鱼得水( rú yú dé shuǐ ):気の合う友人や自分に合った環境を得られる

四面楚歌の“楚歌”ってどんな歌?

いつも出勤や登校する日の朝はスマホのアラームで目覚める人がほとんどだと思いますが、昔は今みたいにスマホや目覚まし時計はなかったので、宮廷内にいる人を起こす専門の人がいました。

朝に鳴く動物といえば“ニワトリ”を思い浮かべる人が多いかと思いますが、その鳴き真似でみんなを起こしていたとも言われています。

それはやがて「鶏鳴歌」という歌に変化を遂げていきますが、一説では四面楚歌の楚歌とはこの「鶏鳴歌」だったのではないかとされています。

他にも説はありますが、詳しい内容については以下の記事にちょっと詳しくまとめていますので、ぜひ合わせて読んで見てくださいね。

参照

『史記』「項羽本紀」(維基文庫)

「四面楚歌」(Web漢文大系)

「楚歌」(百度百科)

「亭長」(百度百科)

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

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