【四面楚歌】項羽が垓下で聞いた楚歌とは

四面楚歌:意味

「四面楚歌」は、「敵に囲まれて孤立し、助けがないこと」「周囲の人たちが反対者ばかりであること」「孤立無援の窮地に陥っていること」という意味になります。

四面楚歌:あらすじ

劉邦率いる漢軍などによって包囲された項羽が、四方から聞こえてくる楚国の歌を聞いて落胆したという話。

四面楚歌:故事

中国語の「四面楚歌」のちょっとだけ詳しい解説については以下の記事にまとめてありますので、興味のある方はぜひ読んで見てくださいね。

楚歌とは

今回の故事成語である「四面楚歌」ですが、この“楚歌”とはいったいどういう歌なのか疑問に思ったことはないでしょうか。

「楚歌」という言葉を辞書で引いてみると、「古代中国の楚国の歌」「楚の地方の調子の歌」と載っており、また、『新漢語林』には四面楚歌の故事から「敗北の歌」という意味もあると載っています。

この楚歌とは、大まかにいうと「楚辞」のことで、「辞」と呼ばれる形式の韻文のことになります。

「辞」とは、韻文の文体のひとつであり、春秋・戦国時代に南方の楚地方に起源を持ち、句中や句末に“兮( xī )”字を用いたり、豊かな叙情性を持っているのが特徴になります。

話は楚辞に戻しますが、一般的に『楚辞』といった場合はそれらを集めた詩集の名称になり、『楚辞』の代表作と言えば、屈原の『離騒』などになります。

この楚辞から派生したのが賦(古代中国の韻文の文体のひとつ)であると言われており、賦は漢代に全盛期を迎えることになります。

また、『楚辞』(騒体、楚辞体とも)は、『詩経』「国風」(15の国と地域の小唄や民謡を収めたもの)に似たものであるともされています。

楚辞の詩はやや長く、句の長さはまちまちで五言・六言・七言のものが多く、『詩経』と比べると単語の重複を多用することは少なくなります。

また楚の多くの方言、例えば句頭に“羌”“蹇”が用いられていたり、句中や句末には“兮”が用いられていることが多くなります。

『詩経』の「国風」のひとつである「周南」は、西周王朝が直接支配していた地域内で歌われていたもので、“南音”の影響を受けた民歌であり、同じく国風に収録されている「召南」(召国およびその南部の民歌)とともに楚国から出たものであるとする学者もいます。

話がかなりそれてしまいましたが、楚歌とは一般的に春秋戦国時代の南方の楚地方に起源を持つ音楽のことになります。

楚歌は秦末から漢初にかけて流行し、歌中に楚音である「兮」( xī )を多く用いたり、句は主に七言や四言からなるのが特徴になります。

楚歌の代表作には、項羽が垓下の戦いの時に虞美人に贈った『垓下歌』(垓下の歌)や、反乱を起こした淮南王の英布(黥布)との戦いの後に故郷の沛で詠んだ劉邦の『大風の歌』などがあります。

ちなみに、『大風の歌』は中国語では『大風曲』『大風詩』『漢祖有歌』とも言います。

また、『史記』の「留侯世家」には劉邦が『鴻鵠歌』を詠う場面があり、戚夫人に対して「為我楚舞、吾為若楚歌」(我が為に楚舞せよ、吾なんじが為に楚歌せん)と言ったことから、楚歌とともに“楚舞”が舞われていたと考えられています。

項羽が垓下で聞いた楚歌とは

楚歌とは春秋戦国時代の南方の楚地方に起源を持つ音楽であるというおおまかなイメージができたところで、では項羽が垓下の戦いの時に耳にした楚歌とは具体的にどのような歌だったのかについて見ていきたいと思います。

ただ、残念ながら「四面楚歌」の故事の出典となっている『史記』の「項羽本紀」や『漢書』には項羽が垓下で聞いた楚歌の詳しい名前については書かれていません。

では、垓下の戦いの時に歌われた楚歌について詳しく知ることができないのかといわれればそうでもありません。

ありがたいことに『史記』には後世の人たちによって注釈書が書かれており、南朝宋の裴駰(はいいん、『三国志』に注をつけた裴松之の子)による『史記集解』(しきしっかい)を初めとして、唐の司馬貞による『史記索隠』、同じく唐の張守節による『史記正義』があります。

これら3つの史記の注釈書を合わせて「史記三家注」(しきさんかちゅう)と言います。

また、これらの他にも徐広による『史記音義』もあったとされており、『史記集解』はこれをもとにしているとされています。

さらに、日本の漢学者である滝川資言(たきがわすけのぶ)『史記会注考証』を編纂したことでも知られており、現代の日本でも『史記』研究の基礎となる書とされています。

ただ、私のようなド素人が研究者面して記事を書くのもなんなので、今回の記事では項羽が垓下の戦いで聞いた楚歌について主に中国語の記事「真正的楚歌是什么样子?」『史記』「項羽本紀」(史記三家注)を参考にしながらまとめてみましたので、ちょっとだけ詳しくみていきたいと思います。

「楚歌=鶏鳴歌」説

「真正的楚歌是什么样子?」(実際の楚歌はどのようなものだったのか)を読んでみると、南朝宋の裴駰の『史記集解』には、次のように書かれているとされています。(以下、拙訳)

【集解】应劭曰:“楚歌者,谓鸡鸣歌也。汉已略得其地,故楚歌者多鸡鸣时歌也。”

■応劭曰く、:“楚歌とは、鶏鳴歌と謂うなり。漢已にその地を略(おか)し得、故に楚歌とは多(まさ)に鶏鳴時の歌なり”

■応劭(おうしょう)曰く、“楚歌とは鶏鳴歌である。漢はすでにその地を手に入れていたため、楚歌とはまさに鶏鳴の時(明け方)の歌である”と。

後漢末から三国時代にかけての政治家で、『漢書』の注釈をした人物でもある応劭(?~204年)は、楚歌とは「鶏鳴歌」のことであり、また「鶏鳴歌」とは鶏鳴時(明け方)の歌であるとしていることが『史記集解』の中には記されています。

では、「鶏鳴歌」とはいったい何の歌なのでしょうか。

それについては、北宋の郭茂倩(かくもせん:1041年~1099年)による楽府集である『楽府詩集』(がふししゅう)「巻八十三 雑歌謡辞一」に詳しい解説が載っているようなので、ちょっとみていきたいと思います。

『楽府詩集』(がふししゅう)とは、先秦から五代十国時代までに作られた5000首以上の楽府(漢詩の一種)がまとめられたものになります。

同書の「巻八十三 雑歌謡辞一」には「鶏鳴歌」について『楽府広題』『周礼』『漢書』『晋太康地記』の各文献から引用して説明したものが記載されているので、ひとつひとつちょっと詳しくみていきたいと思います。

ただ、以下の日本語訳は拙訳になりますので、意訳している箇所や誤訳している可能性のある箇所がありますから、注意していただきたいと思います。

それではみていきましょう。

鶏鳴歌とは

まず『楽府広題』(宋の沈建)には鶏鳴歌について次のように説明されていると載っています。(以下、拙訳)

■《乐府广题》曰:“汉有鸡鸣卫士,主鸡唱。宫外旧仪,宫中与台并不得畜鸡。昼漏尽,夜漏起,中黄门持五夜,甲夜毕传乙,乙夜毕传丙,丙夜毕传丁,丁夜毕传戊,戊夜,是为五更。未明三刻鸡鸣,卫士起唱。”

■『楽府広題』曰く、“漢には鶏鳴の衛兵がおり、主に鶏唱(時を告げる)した。宮中と宮台では鶏を飼育してはならなかった。昼の漏(水時計)が終わり夜の漏(水時計)が始まると、中黄門(宮中で事務を行った宦官)は五夜(夜19時~翌朝5時)を持した。甲夜が終わると乙につなぎ、乙夜が終わると丙につなぎ、丙夜が終わると丁につなぎ、丁夜が終わると戌につないだ、戌夜とは五更のことである。未明の三刻に、鶏鳴の衛兵は歌ったと。

また、『楽府詩集』には『周礼』「鶏人」の部分を引用して次のようなことが記載されています。

■按《周礼•鸡人》“掌大祭祀,夜呼旦以嘂百官”

■『周礼・鶏人』によると、“(鶏人は)祭祀を執り行い、(祭祀を執り行う日には)明け方に百官を呼び起こした”

以上の『楽府広題』『周礼・鶏人』によると、漢の時代には鶏唱(時を知らせる)のための衛兵がいて、明け方に朝が来たことを知らせるために歌っていたということがわかります。

そして、その時に歌われていたのが「鶏鳴歌」だったということになり、応劭は楚歌とはこの鶏鳴歌であったとしています。

この「鶏人」とは祭祀用の鶏を供する役割の官職のようで、同時に祭祀を行う日(葬儀などの重要な日にも)の明け方に百官を呼び起こす役割を担っていたとされています。

ちなみに、「鶏人」は後に「更漏」(こうろう、水時計のこと)を管理する人を指すようになったとされています。

「英国的敲窗人、西汉的鸡人,为了起床世界人民有多拼?」(澎湃新闻)の記事によると、漢代以前は百官を呼び起こすために用いていたのは歌ではなく「鶏の鳴き真似」だったとされており、漢代になると「鶏鳴衛士」を育成して宮廷内で時を知らせるようになったと説明しています。

しかし、その出典については明記されておらず詳細が不明なので、本当かどうかはわかりませんので注意してください。

それに、漢代以前に鶏鳴歌が存在していなかったとなれば、漢成立前に起こった垓下の戦いで項羽が聞いたのは楚歌(鶏鳴歌)ではなかったとなってしまいます。

また、中国では夜19時から翌朝の5時までを2時間ごとに分けて、それぞれ「初更」(19~21時)「二更」(21~23時)「三更」(23~1時)「四更」(1~3時)「五更」(3~5時)としており、これら5つを総称して「五夜」と言います。

『楽府広題』の記述では、夜になり中黄門が五夜を持したとありますが、その五夜とは19時から翌朝5時までのことを指しており、甲夜、乙夜・・・はそれぞれ初更、二更・・・と同じ意味であると解釈しても間違いないと思います。

ちなみに、「鶏鳴」には「四更」(1~3時)という意味もあるようですが、普通に考えてこんな朝早くに起こされたとは思えないので、鶏鳴歌を歌ったのは“未明の三刻”、つまり戌夜(3時~5時)だったと思われます。

とはいいつつも、鶏鳴の時、つまり「四更」(1~3時)に歌ったからこそ“鶏鳴歌”というのかもしれませんから、あり得るのかもしれません。

また『楽府詩集』からの引用になりますが、『漢書』の次の部分を引用しています。(以下、拙訳)

■《汉书》曰:“高祖围项羽垓下,羽是夜闻汉军四面皆楚歌。”应劭曰:“楚歌者,鸡鸣歌也。”

■『漢書』曰く、“高祖(劉邦)が垓下で項羽を包囲すると、項羽はこの夜、四方の漢軍がみな楚歌を歌うのを聞いた。応劭曰く、楚歌とは、鶏鳴歌のことであると。

その応劭による『漢書』の注釈から、四面楚歌の楚歌とは鶏鳴歌のことであるとしています。

最後にまた『楽府広題』の引用になりますが、『晋太康地記』の次の部分を引用しています。(以下、拙訳)

■《晋太康地记》曰:“后汉固始、■同阳、公安、细阳四县卫士习此曲,于阙下歌之,今鸡鸣歌是也。然则此歌盖汉歌也。”

■『晋太康地記』曰く、“後漢の固始、■同陽、公安、細陽の四県では衛兵がこの曲を習い、宮内でこれを歌った、現在の鶏鳴歌はこれのことである。しかしこの歌はおそらく漢歌である”と。

時代は下り後漢時代のことになりますが、ここでも宮中で衛兵が習い歌っていたのが鶏鳴歌であったとしていますが、鶏鳴歌は漢歌であるかもしれないとしています。

そうすると、出典は不明ではあるものの漢代になってから「鶏鳴衛士」が時を知らせる役割をするようになったという先ほどの記事内容が真実により近いものとなります。

『楽府詩集』の「鶏鳴歌」のところで引用されている文献を見てきましたが、以上のことから鶏鳴歌とは祭祀などがある日の朝方に百官を呼び起こす際に歌われていた歌だったということになります。

長々と書いてきましたが、『史記集解』には応劭の見解として「楚歌=鶏鳴歌」であったとしています。

「楚歌=楚人の歌」説

南朝宋の裴駰による『史記集解』には、応劭の見解として「楚歌とは鶏鳴歌である」と記述されていました。

一方、初唐の学者である顔師古(がんしこ)の見解について、張守節による『史記正義』には次のような内容のことが記されています。(以下、拙訳)

【正义】颜师古云:“楚人之歌也,犹言‘吴讴’、‘越吟’。若鸡鸣为歌之名,于理则可,不得云‘鸡鸣时’也。高祖戚夫人楚舞,自为楚歌,岂亦鸡鸣时乎?”按:颜说是也。

■顔師古いう、:“楚人の歌なり、なお‘呉謳’、‘越吟’と言うがごとし”。若(も)し鶏鳴を歌の名と為せば、理に於いて則ち可ならば、‘鶏鳴時’ということを得ず。高祖戚夫人楚舞し、自ら楚歌を為す、あに亦た鶏鳴時か”、按ずるに、顔の説是なり。

■顔師古(がんしこ)は“(楚歌とは)楚人の歌であり、‘呉謳’や‘越吟’とも言う。もし鶏鳴が歌の名前だとして、理屈上そうなのだとすれば、鶏鳴時’ということはできない。戚夫人が楚舞を舞って高祖(劉邦)は自ら楚歌を歌ったのだから、鶏鳴の時(明け方)であるわけがない”と言っている。按ずるに、顔師古の解釈は正しい。

応劭が「楚歌=鶏鳴歌」としたのに対して、顔師古は「楚歌=楚人の歌」であるとの見解を示しています。

これはあくまでも私の見解ですが、もし応劭の言うように「楚歌=鶏鳴歌」なのだとすると、もっといえば、鶏鳴という言葉自体が“固有名詞”なのだとすれば、明け方のことを「鶏鳴時」というのはおかしいのではないのかということを言いたいのだと思われます。(解釈違いかもしれませんが)

また、劉邦が戚夫人に楚舞を舞わせて自身は楚歌を歌ったことについて顔師古が言いたかったのは、もしも劉邦が戚夫人のために歌ったのが朝方に百官を起こす時に歌う楚歌(鶏鳴歌)だったのだとしたらそれはおかしいのではないのか、それとも何、劉邦が楚歌(鶏鳴歌)を歌って戚夫人が楚舞を舞った時間帯は鶏鳴時(明け方)だったとでもいうのか、ということなのだと思います。

しかし、楚歌が鶏鳴歌を指すのではなく、「楚歌=楚人の歌」だと解釈すれば、戚夫人の楚舞とともに劉邦が歌った楚歌が、決して明け方に歌う性質のもの(鶏鳴歌)ではなかったことにも筋が通ります。

それに、『史記』の「留侯世家」(張良についての伝)には、劉邦が戚夫人に対して「為我楚舞、吾為若楚歌」(我が為に楚舞せよ、吾なんじが為に楚歌せん)と言うシーンがでてきますが、確かに、この大事な場面で歌ったのが楚歌=鶏鳴歌だったのであれば選曲ミスも甚だしいと思われても仕方がないかもしれません。

どれくらいの選曲ミスかと言ったら、結婚式のウエディングソングに『軍艦行進曲』(軍艦マーチ)を流すくらい選曲ミスかと(わしゃあ無事に終戦を迎えた元海軍兵か)

ちなみに、戚夫人が舞いながら劉邦が歌った楚歌は『鴻鵠歌』だったと言われています。

まとめ

秦が滅亡して項羽と劉邦による楚漢戦争が始まり、劉邦の勝利を決定づけた戦いである垓下の戦いから誕生した「四面楚歌」。

四字熟語としておなじみの四面楚歌の楚歌とはいったいどういう歌だったのかについていろいろとみてきましたがいかがだったでしょうか。

いろいろな文献名やなんやらがでてきて訳がわからなくなっていると思うので(というより、私のまとめ方が下手なので)整理してみます。

楚歌については2つの説があり、1つめは応劭の言うように「楚歌=鶏鳴歌」

鶏鳴歌とは、百官を起こすために宮中で歌われた歌のことになります。

2つめは「楚歌=楚人の歌」

この場合、具体的な曲名ではありませんが、楚歌という言葉を説明する上では一番しっくりするものだと思います。

項羽が垓下の戦いの時に四方から聞こえてきた楚歌とはいったいどのような歌だったのかについては、もはや当時それを歌った兵士たちや、それを聞いていた項羽たちにしかわかりません。

ただ、楚の歌はよく句中に“兮”が多用されていることが多いにもかかわらず、『鶏鳴歌』についてはまったく使われていません。

なので、個人的にはやはり項羽が耳にした楚歌は『鶏鳴歌』ではなく、他の歌だったのではと感じています。

参照

「真正的楚歌是什么样子?」(知乎)

『史記』「項羽本紀」(史記三家注・維基文庫)

『楽府詩集』「鶏鳴歌」(維基文庫)

「詩経」(中国語版Wikipedia)

「滝川資言」(Wikipedia)

「英国的敲窗人、西汉的鸡人,为了起床世界人民有多拼?」(澎湃新闻)

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「miho.panda」さん - パンダ

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