【三国志】「崔琰」は魏のイケメン男子だった?!

崔琰とは

崔琰(163~216年)は冀州清河郡東武城県(現在の河北省衡水市故城県)の出身で、字を李珪といい、魏の官吏として登用され、公明正大で誠実な人柄であったとされています。

当時、漢代では23~56歳までの男子は毎年一定期間、労役に服さなければならない決まりがあり、崔琰もその決まりにより23歳の時に「正卒」(都で1年間の労役)として故郷を離れて暮らすことになりました。

それがきっかけで崔琰は『論語』や『韓詩』を読むようになり、29歳の時には公孫方などと交友関係を築いて鄭玄に師事することになりましたが、それから1年とたたないうちに徐州の黄巾賊が北海郡を攻め落とし、崔琰たちは不其山に避難しました。

しかし、食糧が不十分だったこともあり、そのまま“退学”を余儀なくされました。故郷へ帰ろうにも盗賊が至る所におり、また、西へ向かう道が通れなかったことから青州や豫州などを迂回しながら故郷に帰ることになりました。故郷に帰ってからは音楽と書を楽しみました。

その後、袁紹により召し出されて「騎都尉」(皇帝直属の部隊である“羽林騎”を監督する官職)となりました。

袁紹が曹操に敗れてからは魏に帰順することとなり、さまざまな進言を行い曹操から重用されたものの、最後は他の官吏の讒言により曹操から自害を命じられて亡くなりました。

崔琰と「大器晩成」の故事

日本でもおなじみの「大器晩成」という故事成語は、『三国志・魏書』「崔琰伝」が出典となっています。

崔琰には「崔林」という従弟がいて、優秀な崔琰と比べられてはいつもみんなに馬鹿にされていました。しかし、従兄の崔琰だけは崔林の才能に早くから気付いており、「大器晩成」であると言っていました。

その言葉通り、崔林は後に魏の大職を任されることになります。

詳しくは以下の記事にまとめてありますので、ぜひ読んでみてくださいね。

『世説新語』の「容止」

「大器晩成」の故事成語のもとになった故事にも登場する崔琰ですが、彼が今でいうところのイケメンだったのではないかという話は『世説新語』(せせつしんご)という小説集に載っています。

『世説新語』とは、後漢末から東晋までの著名人の逸話などを集めた小説集になり、中国南北朝時代に劉義慶」( liú yì qìng:刘义庆によって書かれました。

『世説新語』は「徳行」や「政事」、「文学」など36類に分けられ、書全体で1200以上の話が収録されていますが、各話の文字数はまちまちで、数行のものもあれば、数言で終わるものもあります。

36ある類のひとつに「容止」というものがあります。「容止」とは「風采・振る舞い」のことで、外見や振る舞いに関する話が収録されています。

魏王の“代役”となった崔琰

『世説新語』の「容止」に収録されている話のひとつに曹操に関するものがあり、その中に崔琰も登場します。ちょっと短いですが、話は次の通りになります。

「魏の曹操は匈奴の使節と会うことになりましたが、自身の醜い容貌では遠方の国に威厳を示せないと考えました。

そこで、容姿端麗である崔李珪(崔琰)を魏王の代わりとして、曹操自身はその傍で護衛として刀剣を持って立っていました。

その後、曹操は間者(スパイ)を送り込んで先ほどの使者に魏王はどうだったかを尋ねさせました。

すると使者はこう答えました。

「魏王の威厳と信望は並のものではありませんでしたが

その傍で刀剣を握っていた者こそが英雄でありました」

これを聞いた曹操はすぐさま人をやってこの使者を亡き者としました。」

以上が『世説新語』の「容止」に収録されている曹操にまつわる話になります。

この話の中で使者は魏王に扮した崔琰のことを「魏王雅望非常」(魏王は風采が立派であった)と評していることから、曹操が自身の“代役”に抜擢するほど「イケメン男子」だったということが分かります。

崔琰自身、剣術が得意で武芸に秀でていただけでなく、20代になってから学問を修めて官吏としても抜擢されているうえにイケメンだったわけですから、現代で言えばスポーツができて成績優秀のイケメン男子であるわけです。

彼が学生なら間違いなくモテてたでしょうね。学生時代ってそういう人が不思議とモテますし。ま、私には無縁の話ですがwww

また、中国ではこの話を「床头捉刀人」( chuáng tóu zhuō dāo rén )ということもあります。

「床」( chuáng )とは現代中国語だと一般的には「ベッド」のことを指しますが、ここでは古代中国で使われていた「座具」のことを指します。

「座具」としての「床」は腰掛けとしてはもちろんのこと、現代のように就寝用にも使われていました。

ということは、原文の「帝自捉刀立床头」から推測するに、崔琰扮する“曹操”が匈奴の使者と会ったのは、この「床」があった所ということになり、曹操が剣を持って立っていたのは、その「床」の「头」(端っこ)になるということです。

曹操が匈奴の使者を亡き者にした理由

使者が崔琰扮する“曹操”を偽物だと見抜いていたという報告を間者(スパイ)から聞いた曹操は、なぜこの使者を殺す必要があったのでしょうか。

それには2つ理由があります。

ひとつは、曹操がこの使者の「人を見る力」を非常に警戒したこと。

もうひとつは、容姿端麗の人物を曹操自身と入れ替えさせたことやその意図を、この有能な使者が帰国後に話すことによって自身の威厳が低下することを恐れたためだと言われています。

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「miho」さん - パンダ

「せいじん」さん - 人

「しらたま」さん - チャイナ服娘 

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