杞人忧天:杞人が「杞憂」していた本当の理由

「杞憂」とは

「杞憂」(きゆう)とは根拠がないことや心配する必要のないことについて無用な心配をすることで、分かりやすく言うと「取り越し苦労」のことです。

「杞人の憂え」と言うこともあります。

使い方としては「○○○は杞憂に終わる」や「○○○は単なる杞憂に過ぎない」

「その心配を杞憂として片付ける」「結局は杞憂だった」という感じになります。

この「杞憂」という言葉は中国春秋時代、天地が崩れ落ちてしまわないかと心配していたの杞国のある人の話がもとになっていて

戦国時代の列子(れっし)の著とされる『列子・天瑞』が出典になっています。

「杞人忧天」( qǐ rén yōu tiān )とは

中国語で「杞憂」は「杞人忧天」( qǐ rén yōu tiān )と言います。

詳しい内容は以下の記事にまとめてありますので、ぜひ読んで見てくださいね。

さて、この「杞憂」の故事についてですが

杞国のある人が天や地が崩れ落ちないか心配していたという話として辞書やその他の書籍、サイトなどで紹介されている場合がほとんどです。

当時の自然に対する知識や認識を考えたら確かにそのような恐れを抱いても不思議ではないのかもしれませんし

それは現代に生きる私たちが宇宙人に対して抱いている不安や期待と同じなのだと考えたら分かりやすいのかもしれません。

この「杞憂」の故事に登場する杞人がなぜそのような不安を抱いていたのか。

「天地が崩れ落ちてくる」というのは別の不安を比喩していたのではないのか。

いろいろと調べていくとこの疑問を解消してくれる記事がいくつか見つかりました。

そこで今回はそれらの記事のうち3つをピックアップして、その記事を参考に自分の考えも織り交ぜつつ自分なりに杞人が不安に感じていたものの正体をまとめてみました。

参考にした記事は以下の3つになります。中国語の記事名をクリックするとその記事のページが開きます(リンクが切れていたら申し訳ありません)。

杞人忧天原来是有缘故的,很可能被大家误解了千年 

(1000年にわたる誤解か、杞人の“憂え”には理由があった)

杞人忧天的真相原来是这样

(本当はこうだった“杞憂”の真相)

河南杞县,曾经是杞国所在地,“杞人忧天”的故事就发生在这里

(かつて杞国があった河南省杞県、そこで起こった“杞憂”の故事)

ただ、この話をする前に背景知識としてまず「杞国」についての解説したいと思います。

杞国とは

杞国とは周代初めから戦国時代初め(紀元前8世紀頃~紀元前5世紀頃)にかけて存在していた諸侯国のことです。

周代以前にも存在していて一旦は滅びたものの、「大禹治水」で功のあった大禹の末裔であったことから周の武公により杞の地(現在の河南省杞県一帯)を封じられ杞国は再興することとなりました。

「東楼公」に始まり「簡公」の代である紀元前445年に楚国により滅ぼされるまで20代にわたり存続しました。

小国であったため『史記』の「陳杞世家」での記述も300字足らずと少なく、詳しいことはあまり分かっていませんが、宋国などといった周辺の国から度重なる侵入を受けては遷都を繰り返したとされています。

まず、4代目「謀娶公」の時代(紀元前751年より前)には他国からの相次ぐ侵略により、現在の山東省にあった「邾国」に避難すると、その後さらに東にある「新泰」(山東省泰安市)に移りました。

紀元前647年には宋国や淮夷からの侵入を受けて、その翌年の紀元前646年の成公の時代には「昌楽」(山東省濰坊市昌楽県)に遷都し、紀元前544年の文公の時代には「安丘」(山東省濰坊市安丘市)に遷都しました。

その後、紀元前445年の「簡公」の時代に楚国により攻め滅ぼされてしまいました。以上が杞国の誕生から滅亡までの歴史になります。

(注)杞国の遷都については学者の間でもさまざまな説があるようで、周の懿王(いおう)の時代の紀元前10世紀には既に山東省に移っていたという説や、5代目君主「武公」時代の紀元前740年に安丘(当時は淳于)に移ったという説

また、杞国が杞県一帯と安丘一帯の2つに分かれていたとする話もあるようですが、ここでは中国語記事の内容に沿って「戦乱を逃れて杞県から邾国へ避難したのち新泰などへ移った」として話を進めていきたいと思います。

杞憂の理由①:神話説

中国の古代神話には「女媧」(じょか)という人頭蛇身の神がいて、中国では俗に「女媧娘娘」と呼ばれることもあります。

女媧は人間を創造したこととしても知られていて、文献によって様々なバリエーションがありますが、泥を捏ねて人間を創造したとされていて、「人類の母」と呼ばれています。

また、人類が子孫を残してますます殖えるように自らを仲人として婚姻制度を作ったともされています。

その女媧にまつわる中国語の故事成語に「女娲补天」( nǚ wā bǔ tiān:女媧天を補う)というものがあり、「天地を造りかえる気概と何ものをも恐れない闘争精神」を形容します。

この「女娲补天」の故事も文献により様々なバージョンがありますが、簡単なあらすじは次のようになります。

女媧が人類を創造してからしばらくしたある日、天を支えていた4本の天柱が倒れてしまい、大地は裂け、天は大地を覆うことができなくなってしまい、地上は大きな災害に見舞われることになりました。

あたりは火の海と化し、また洪水も発生し、猛獣は善良な人々を喰らい、凶暴な鳥はその爪で老人や子どもを捕らえました。

自らが創造した人類の憐れな光景を目の当たりにして女媧は、“五色石”を精錬して天空に空いた穴を塞ぐと、さらには大亀の脚を“四極”を支える新たな天柱としました。

また、“黒龍”を倒して冀州(先秦時代の冀州は現在の山西省一帯もしくは河北省・内モンゴル自治区一帯を指した)を救い出し、芦(あし)の灰を積み上げて洪水を防ぎました。

天空の修復作業が終わり、天を支える新たな天柱ができたことで洪水は退き、大地は落ち着きを取り戻し、猛獣や凶暴な鳥もいなくなったことで、人類は生き延びることができました、というのが「女娲补天」(女媧天を補う)のざっとしたあらすじです。

「女娲补天」の話は実際には「隕石説」や「大規模な自然災害説」などがありますが、ここではその話は割愛させていただきます。

女媧(じょか)が天に空いた穴を補ったという神話が人々の間で言い伝えられていたことにより、古代の人々は天が四本の柱で支えられていると認識していたと考えられることから

また同じようなことがあったら再び天が崩れ落ちてきたり大地が火災や洪水などの大災害に見舞われるのではないかという不安が漠然とあったと思われます。

そこから、杞国の人もまた同様に天地が崩れ落ちるのではないかと心配していたのではないかというのがひとつ目の説になります。

杞憂の理由②:流星群説

孔子が編纂したとされる歴史書『春秋』(しゅんじゅう)の代表的な注釈書のひとつである『春秋左氏伝』(『左伝』『春秋左氏』『左氏伝』とも)。

紀元前700年からの約250年にわたる魯国の歴史について書かれている『春秋左氏伝』の「荘公七年」には夜にたくさんの星が降り注いだとされる記述が載っています。

その記述は、現在も毎年4月下旬頃に観測できる「こと座流星群」のことを指しているとされており、こと座流星群の記述としては世界で最も古いものになるそうです。

流星群は氷や塵でできた彗星がその軌道に残していくダストと地球の軌道がちょうど重なった時に、そのダストが地球に降り注ぐ際に大気との摩擦によりプラズマ化して光を放つことで観測することができます。

こと座流星群は太陽を約400年周期で公転する「サッチャー彗星」という彗星が母天体(ダストを生み出す彗星のこと、母彗星とも)となっていて、こと座のベガ(織女星、おりひめ星)付近が放射点となっています。

毎年4月下旬になるとこのサッチャー彗星の通り道に残された塵でできた流れ(ダストストリーム)を公転する地球が通ることで「こと座流星群」が発生します。

説明下手なので詳しくは「流星電波観測国際プロジェクト」にある流星群の解説を読んでみてくださいね。

『春秋左氏伝』に記述されていた「こと座流星群」についてですが、これは今から2600年以上も前の「荘公7年」、つまり紀元前687年の出来事になります。

『春秋左氏伝』の「荘公七年」には“夏四月辛卯,夜,恒星不见。夜中,星陨如雨。”と記述されており、夜に多くの星が降り注いだとあります。

解説部分である「伝」には“星陨如雨,与雨偕也。”とあり、流星群とともに雨が降り注いでいたと記述されていますが、個人的にはあまりイメージがわきませんでした(笑)

後述しますが、当時の杞国は「新泰」(山東省南西部)にあったと考えられるため、この流星群を記述した魯国の近くに住んでいた杞人もこの流星群を目撃していたものと思われます。

そこから当時の杞人が流星群が大量に降り注ぐのを見て天地が崩れ落ちるのではないかと心配していたのではないかということになります。

杞憂の理由③:隕石説

山東省泰安市寧陽県に「南落星村」と、さらにその北3㎞ほどのところに「北落星村」という村があります。場所は下のグーグルマップから確認してみてくださいね。

この2つの村のうち、「南落星村」の北側に数十個の石からなる“巨石”があり、現地では「星星山」と呼ばれています。

“星星山”は周辺にある石とは石質(岩石の性質のこと)が異なり、赤・黒・黄色の3色を呈していて、また同時に結晶構造を呈していることから、専門家の鑑定ではこれは隕石の一種である「石鉄隕石」(鉄・ニッケルの合金とケイ酸塩を等量含んだもの)としています。

ここでまた話は『春秋左氏伝』に戻りますが、「荘公七年」(紀元前687年)に多くの星が降ったとあり、それがこと座流星群のことを指していると書きましたが、この「南落星村」にある隕石もその際に地上に降ってきたのではないかとされています。

では、こと座流星群の記述および“星星山”が地上に落ちてきたことと、杞人が心配していたことには一体どういう関係があるのでしょうか。

『春秋左氏伝』にあるとおり、流星群が降り注いだのは「荘公七年」(紀元前687年)になりますが、その頃の杞国はというと6代目君主「靖公」(在位紀元前703~紀元前681年)の時代になります。

正式な在位記録があるのは5代目君主「武公」(在位紀元前750~紀元前704年)からになるので詳細の時期は分からないのですが、「武公」の前の4代目君主「謀娶公」の時(つまり紀元前750年より前)に杞県から新泰(山東省南西部)に移ったと考えられていることから

流星群が降り注いだ紀元前687年時点での杞国の所在地は、“星星山”が降ってきた寧陽県(当時は魯国の領土)のすぐそばの「新泰」にあったと考えられます。

そこから推測すると、自然に対しての知識が乏しかったであろう当時の杞国の人たちも大規模な流星群を目の当たりにしていただけでなく、なんならすぐ近くに落ちた“巨石”の話も聞いていたに違いありません。

そこから、「杞憂」のもとになった「杞人忧天」の故事に出てくる杞人は流星群が降り注ぐ光景を目の当たりにして天が崩れてくるのではないのかと怖れを抱いてしまったのもそうですが

杞国の近くに隕石が落ちてきたという話を耳にしたことで天が落ちてきて地が崩れたらどこに身を隠せばいいのかと悩んでいたのではないかという訳です。

ただ、個人的にはこれは『春秋左氏伝』の「荘公七年」の記述と“星星山”の隕石の話を無理やりくっつけた感じがどうも払拭できません。

「宁阳有座星星山,天外来客曾光临(寧陽にある星星山、宇宙からの来客)などの記事によれば

その『春秋左氏伝』の記述はこと座流星群のことを指しているのではなく、この“星星山”と名付けられた“巨石”が降ってきた時のことを記述しているのではないかとしています。

また同記事では、この“星星山”について現地の言い伝えを紹介しており、その昔、性格が合わないことから2つの星が言い争いを始めてしまいケンカとなり、互いがぶつかったことで地上へと落下してきたとのこと。そのひとつが「北落星村」に落ち、もうひとつが「南落星村」へ落ちたというわけです。

ただ同記事では、仮に“星星山”が隕石だったとしてもなぜクレーター(隕石孔)ができていないのか疑問を呈しており

それに、“星星山”がそもそも隕石であるということに対して疑問の声も挙がっているようなので、その信憑性についてはあまり高いと言えないかもしれません。

私自身も、流星群と一緒にあれだけの“巨石”が降ってきたとは考えにくいと思っているので、伝説はやはり伝説のままにしてそっとしておいた方がいいのかもしれません。

ただ、“星星山”という巨石が降ってきた時期については明らかになっていないようなので、こと座流星群とは別の時期に地上に落下してきた可能性も考えれば、この説はなきにしもあらずなのかもしれません。

杞憂の理由④:他国侵略説

春秋時代は形式上は周王朝が存続してある程度の権威を保っていたものの、実際には諸侯国同士が互いに領土を争い、大国が小国を呑み込んでいくという文字通り「弱肉強食」の時代でした。

『史記』の「陳杞世家」ではわずか300字足らずの記述しかなかった杞国もまた大国が引き起こす荒波によってもまれていた一隻の小舟のような小国でした。

春秋時代初め頃の杞国は現在の河南省開封市の杞県にあったと考えられることから、西には「鄭国」、東には「宋国」、南には「淮夷」などの実力国がありました。

それ故に度重なる侵入を受けたことで、一説では4代目君主「謀娶公」の時代、つまり紀元前750年より前の段階で現在の山東省南西部へと逃れることになりました。

杞国の建国当初は大禹の末裔ということで領土を封じられて周王朝から庇護を受けてきたとはいえ、周王朝が名実ともに衰退してしまった当時の杞国はもはや後ろ盾を失ってしまった実質的な小国であり

また、小国である杞国が周辺の大国からの度重なる侵入に対抗できるだけの国力があったとは考えにくいことから、当時の杞国の人々は今度またいつ他国から攻められるのかと恐れていたと思われます。

そこから、「杞憂」のもとになった「杞人忧天」の故事で杞人が心配していた「天地が崩れ落ちるのではないか」「その時はどこに身を隠せばいいのか」という悩みは

いつまたやってくるかも分からない「他国からの侵略」を怖れていた当時の人々の心境の表れではなかったのかということです。

それを考えると、当時の杞人の不安や心配は「杞憂」でも何でもなくて、大国に攻められることで命を奪われたり、安住の地を追われたりするかもしれないという現実的な悩みだったのかもしれません。

まとめ

「杞憂」のもとになった「杞人忧天」の故事に登場する杞人が心配していた本当の理由は何だったのかについて中国語のサイトを参考にしながらまとめてみました。

個人的には「他国侵略説」が一番現実的なのではないのかなと感じています。

それは例えるなら家の中にデカいゴキブリやゲジゲジが出てきた時、倒し損ねて家具などの隙間や押し入れの中に逃げられてしまったことと同じかもしれません。

私のような虫嫌いの人間からすると、またいつ出てくるのかとか、知らず知らずのうちに背中とかを這っていたらどうしようとか、寝ていて布団の中に入ってきたらどうしようとか想像するだけでも鳥肌ものです。

ま、杞人に比べたら贅沢な杞憂なのかもしれませんが・・・

現代版「杞憂」:「杞人忧钴」とは

2009年の夏、河南省開封市の杞県の人たちの間でこんな噂が流れ始めました。

「核爆発が起こるかもしれない・・・」

その後、住民の一斉避難により交通機関がマヒするなどの大混乱が発生。

原因は、とある工場で起きた事故でした。

現代版「杞憂」とも言われた「杞人忧钴」は下の記事にまとめてありますので、ぜひ読んで見てくださいね。

「杞国」の国名の由来

杞国の国名の由来について解説していますので、よかったらぜひ読んで見てくださいね。

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「miho」さん - パンダ

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