【故事成語】目不识丁( mù bù shí dīng )②

目不识丁( mù bù shí dīng ):意味

「目不识丁」( mù bù shí dīng )は「目に一丁字もない」ということから、「文字が全く読めない」、またそこから転じて「教養がない」「無学である」という意味になりますが、特に「読み書き」ができないというニュアンスが強いです。

どちらかというと、教育を受ける機会がなかったことで読み書きができない「文盲」「非識字者」の意味に近いと思います。

目不识丁( mù bù shí dīng ):あらすじ

張弘靖の部下が兵士たちに「世は平和なのだから、丁の字でも覚えたらどうだ」と言ったという話。

目不识丁( mù bù shí dīng ):故事

張延賞の子である張弘靖は字を元理といい、純潔で寛大、誠実で公正な人物でした。

若くして門蔭(仕官する際などの優遇制度の一種)により河南府参軍を授かると、藍田尉(藍田県の県尉)に転任することになり、その後は幽州(北京一帯)の節度使(管轄区の軍事を司る官職のこと)として派遣されることになりました。

軍の指揮官たちは他の兵士たちと同じように寒さや暑さにさらされ、安車(かご)に傘を立てていませんでしたが、張弘靖は昔から裕福で、またその地の風土を知らなかったため、燕に入る時には張弘靖が乗っていた安車は三軍のものよりも豪華でした。

これには薊の人たちはみな非常に驚きました。

また、張弘靖は安史の乱がここ幽州から始まったことから、彼らの習俗を改めようと安史の乱の指導者である安禄山の墓を掘り起こしてその棺を破壊してしまうと、これにはみな失望してしまいました。

さらに、張弘靖には韋雍張宗厚という部下がおり、礼儀をわきまえず酒を嗜み、彼らはいつも夜遅くまで酒を飲んでいたことから、彼らが通る道はたいまつの光で明るく照らし出され、いつも怒鳴り声が響き渡っていました。

また、韋雍などはいつも兵士たちのことを「反虜」(反逆者、謀反人の意)と罵っては、兵士たちに対してこう言っていました。

「この太平の世の中、お前たちが弓矢を射ることができたところで何になるというのだ、“丁”の字でも覚えたらどうだ」

このことから、みな彼らに対して深く恨むこととなりました。

劉総が中央に戻ることになると、彼は兵士たちに“百万貫”の金銭を贈りましたが、そのうちの20万貫を張弘靖は軍府の雑費として用いるために横領してしまいました。

ほどなくして横領の件を幽州の民や兵士たちは知ることとなり、また、これまでの事もあって遂に我慢の限界が来た兵士たちは、張弘靖を薊の門館(役所)に監禁し、韋雍と張宗厚らを殺害してしまいました。

張徹が遠方から戻ってくると、みな彼には罪はないと思っていたことから、危害を加えずに監禁するつもりでいました。

しかし、そのことを知らない張徹は、張弘靖の居場所を探そうと彼らを怒鳴りつけると、乱兵によってその命を奪われてしまいました。

次の日、兵士たちは後悔したため門館に向かうと、心を改めて張弘靖に仕えることを望むと3回にわたって目通りしましたが、張弘靖はいずれも返答しませんでした。

兵士たちは張弘靖に言いました。

「あなたが何も話したがらないということは、我々を許すおつもりはないということなのでしょう。しかし、軍に1日でも師がいないというわけにはいきません!」

その後、朱洄が留後(節度使の不在時に藩鎮の軍政を代行する)となりましたが、朝廷は朱洄の子である朱克融を幽州節度使とすると、張弘靖を撫州刺史に降格させました。

その後しばらくして、張弘靖は少保、少師などを歴任した後、長安(現在の西安)で亡くなりました。65歳でした。

出典《旧唐書・張延賞伝》

《旧唐书・张延赏传》:“今天下无事,汝辈挽得两石力弓,不如识一丁字。”

この故事成語である「目不识丁」( mù bù shí dīng )の故事の出典は、劉昫(りゅうく)などによって編纂された『旧唐書』(くとうじょ)「張弘靖伝」になります。

唐の成立から滅亡まで(618~908年)を記した『旧唐書』の「韓滉・張延賞」の中で、張延賞の子として張弘靖の生涯の話が出ててくるのですが、「目不识丁」のもとになった部分はそこで出てきます。

そのもとになったと言われているのが、幽州節度史として幽州に赴任した張弘靖の部下である韋雍張宗厚らの兵士たちに対する発言になります。

具体的に何と言っていたのか原文を見てみましょう。(以下、拙訳)

■「今天下无事,汝辈挽得两石力弓,不如识一丁字。

「今天下に事(こと)無く、汝ら両石力の弓を挽き得るも、一丁字を識するに如かず」

■「今、天下は太平であり、お前たちは両石の弓を引くことができるが、(そのことは)“丁”の字を覚えることには及ばない」

それに夜まで酒を飲んでは、その帰り道がたいまつの明かりで照らし出されていたということから、帰宅する時は兵士たちにいつも送り届けてもらっていたことが想像できます。

また、安史の乱により“反逆者、謀反人”というレッテルを貼られることになった幽州の兵士たちは酒が入った韋雍たちからそう罵られていたというわけですから、韋雍たちが常日頃から恨みを買われていたのは当然のことといえます。

ちょっと深掘り

安史の乱(755年~763年:安禄山の乱)の指導者である安禄山は名前だけ見ると漢民族のようですが、実は西域のサマルカンドの出身であり、ソグド人と突厥の混血でした。

唐王朝に仕えるようになってから徐々にその頭角を現し、唐の玄宗やその寵妃である楊貴妃に上手く取り入ったことで北方の辺境地域(現在の河北省と北京一帯)の3つの節度使(管轄区の軍政を担当)を兼任するようになりました。

また、安禄山の部下であった史思明は安禄山と同じ出身であり、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれています。

幽州(現在の北京一帯)一帯は安史の乱の根拠地であったことから、結果として兵士たちは韋雍たちからいつも反逆者のレッテルを貼られていたわけになります。

また「張弘靖伝」によると、張弘靖は門蔭によって河南府(現在の河南省洛陽市一帯)の参軍や藍田尉になったと記述されています。

この「門蔭」(任子、恩蔭、蔭補、世賞とも)というのは「祖父や父親の世代の地位や功績により、その子孫が仕官などをする際に特別待遇を受けられる制度」とされています。

日本語では「門蔭の制」といわれるもののようで、日本でもそれを参考にして蔭位(おんい)という制度が設けられ、高位者の位階に応じてその子孫に一定以上の位階に与えていたとされています。

調べて見ると、張弘靖の祖父である張嘉貞は中書令などを歴任し、父親の張延賞は宰相などを歴任していたことから、張弘靖は祖父と父親の恩恵をもろに受けていたことがわかります。

また、「参軍」とは、州の長官である「刺史の補佐官」のことであり、唐代は州と同格の「府」も設けられていたことから、張弘靖は河南府の参軍だったと思われます。

この参軍はもともと「従事」(从事)と言われていましたが、隋代の楊堅の治政である開皇12年(592年)に従事から参軍に改めたとされています。

「藍田尉」とは、「藍田県の県尉」という意味になり、藍田県は現在の陝西省西安市南東部一帯のことで、「県尉」とは「県令(県長)を補佐し、主に治安維持を担当する官職」のことになります。

留後(留后)とは、唐代に「節度使や観察使に欠員が生じた場合に設置する代理の官職」のことになります。

安史の乱以降、藩鎮が跋扈する中で、河北三鎮などの諸鎮の節度使が亡くなる際などに自らの子弟や信頼できる者を留後としたり、節度使が亡くなってから軍が自らの子弟や大将を擁立しました。

朝廷は追認する時もあれば、他の節度使を任命することもあったため、度々争いに発展することがあったとされています。

類義語

胸无点墨( xiōng wú diǎn mò ):少しも学問がない、無学である

不识之无( bù shí zhī wú ):文字を知らないこと(よく使われる「之」や「无」すら知らないことから)

対義語

学富五车( xué fù wǔ chē ):学が深いこと

满腹经纶( mǎn fù jīng lún ):政策や識見を豊富に持っている

两脚书厨( liǎng jiǎo shū chú ):本をたくさん読んで博学ではあるけど実際への応用が苦手な人のこと

目不识丁の他の故事

目不识丁( mù bù shí dīng )のもうひとつの故事については以下の記事にまとめてありますので、ぜひ合わせて読んで見てくださいね。

参照

『旧唐書』「張弘靖伝」(維基文庫)

「安史の乱」(Wikipedia)

「恩荫」(百度百科)

「蔭位」(Wikipedia)

「従事」(Wikipedia)

「留后」(百度百科)

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「せいじん」さん - ネコ

「miho.panda」さん - パンダ

「しらたま」さん - チャイナ服の女の子

おすすめ記事(猜你喜欢)

1件のコメント

【故事成語】目不识丁( mù bù shí dīng ) | ドジでのろまな亀の中国語 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です