【呂母】子の敵を討つため全財産をつぎ込んだ母

この話は、前漢から簒奪して帝位についた王莽により国号が新となってから数年が経った元鳳元年(14年)、ひとり息子を失ってしまったとある資産家の女性「呂母」の復讐劇になります。

彼女は自らの財産をすべて使い果たしてまでも貧しい民たちを助けてきましたが、それはすべて息子の命を奪った県宰(県の長官)に復讐するためでした。その後、彼女は数千の軍勢を率いて戦い、ついには息子のために復讐を果たすこととなりました。

そこで今回の記事では、封建時代にあって女性の権利が著しく制限されていたとされる当時、農民を率いて戦った中国史上初の女性指導者である呂母の復讐劇についてちょっと詳しくみていきたいと思います。

資産家の呂母と息子

時代は新末後漢初の元鳳元年(14年)、簒奪により帝位につき国号を新とした王莽は、周王朝を目指した復古的な改革と、冊封国などに対する中華思想的な改革によって各方面から反発を受けてしまい、各地では「反新」の狼煙がじょじょに燻り始めていました。

そんな中、琅邪(ろうや)郡の海曲県(現在の山東省日照市)に「呂母」という資産家の女性がいました。彼女の姓名については分かっておらず、『漢書』や『後漢書』の史書には「呂母」とだけ載っています。

彼女のひとり息子は、盗賊の取り締まりなど治安維持を司る游徼(ゆうきょう)を務めていた県の役人でしたが、ある時、“小罪”によって県宰(県の長官)により処刑されてしまいました。

小罪が具体的にどういう罪だったのかは史書には載っていませんが、一説では税を納められない民を処罰するようにとの命令に背いたために処刑されたと言われています。

「小罪」という言葉から推測するに、おそらく死に値する罪を犯したという訳ではなかったと思われますが、いずれにせよ突然の出来事に、ひとり息子が処刑されてしまった彼女の心は悲しみと憤りでいっぱいになっていました。

全財産を復讐に

息子を処刑した県宰(県の長官)への復讐を誓った呂母は、まずは持てる資産をつぎ込んで武器や衣服を買い集めまると、醇酒を醸造して酒を売りながら宿を経営し始めました。

酒を買いに来た若者にはつけで売ってあげたり、貧しい人たちには衣服を貸し与えたりと、懇ろにもてなしてあげましたが、数年後には財産が底を尽いてしまいました。

そこで若者たちは、今までのつけなどを呂母に返済しようとしましたが、呂母は涙を流しながら若者たちに言いました。

「君たちをねんごろにもてなしてきたのは利益のためではありません。

ただ県宰によってむだに殺されてしまった我が息子の恨みを晴らしたかっただけのこと。

私の気持ちを理解してくれますか。」

すると、その姿を見た若者たちは、普段から呂母に恩を受けていたということもあり彼女の気持ちに応えることにしました。若者の中には自らを猛虎と称する勇士がおり、約千人が集まると、その後は逃亡者や浮浪者も加わっていき、その数は数千人にも達しました。

将軍呂母

数千人を集めることに成功した呂母は、自らを「将軍」と称して若者たちの先頭に立つと、そのまま軍勢を率いて海曲県に攻撃を仕掛けました。

海曲県側の軍を撃破した呂母たちは県宰を生け捕りにすると、県の役人たちは頭を地に打ち付けながら県宰のために許しを請おうとしました。

しかし、呂母は言いました。

「我が息子は小罪を犯し、死ぬべきではなかったにもかかわらず、県宰にむだに命を奪われてしまった、人を殺めた者が死ぬことに何の情けがあろうか」

ついに県宰は討ち取られると、その首は呂母の息子の墓に供えられ、呂母による復讐に幕が下りることになりました。

「反新」の狼煙があがる

県宰によって命を奪われてしまった息子の無念を晴らした呂母は晩年の無理がたたってか、それからしばらくした天鳳5年(18年)に病死してしまいした。

その数年後には呂母と同じく琅邪郡出身の樊崇(はんすう)が莒(現在の山東省日照市)で「反新」の兵を挙げると、これにより燻っていた反新の狼煙が本格的に上がることになりました。

当初は百余りだった軍勢も、青州や徐州で大飢饉が発生したことで賊が蜂起して樊崇に多くの人が従ったことにより、1年の間に軍勢は1万余人に一気に膨れ上がりました。

樊崇の軍は政府軍と見分けがつくように眉を赤く染めていたということから、「赤眉軍」と呼ばれるようになりました。

呂母のもとに集まっていた若者たちも散り散りとなったものの、中には樊崇率いる赤眉軍に合流するなどして、反新の戦いに参加していきました。

息子の命を奪われた無念を晴らすために呂母というひとりの女性から始まった小さな復讐劇は、やがて新王朝を滅亡へと導くきっかけの一つとなり、遂には中国の歴史を大きく動かすこと出来事に繋がっていったというわけです。

「呂母崮」と「鶏絲湯」

ここでは呂母にまつわる遺跡と料理について紹介したいと思います。

■呂母崮(りょぼこ)

現在の山東省日照市の徐家村の西側に位置する呂母が蜂起する際に拠点とした高さ約3メートルの“土台”のことで、呂母はここを「点将台」とし、自らを“将軍”と称して挙兵したと伝えられています。

■鶏絲湯(ジースータン)

呂母が考案したとされる鶏肉のスープのことで、「呂母起義鶏絲湯」や「呂母鶏絲湯」「鶏絲湯飯」ともいいます。

作り方はさまざまあるようですが、一例として雌のニワトリ一羽を丸ごと鍋で2時間ほど塩を入れて煮込んだ後に、冷ました鶏肉を手で裂いたら、煮汁を「砂鍋」に移し替えて、お好みでシイタケや春雨を入れて先ほどの鶏肉とともに加熱すれば完成になります。

【故事成語】乌合之众( wū hé zhī zhòng )

呂母が亡くなってから数年後の更始元年(23年)、前漢から簒奪して帝位についた王莽による新王朝はついに滅亡することになり、その後、日本語でもおなじみの「烏合の衆」の故事成語が誕生するきっかけとなる王郎による挙兵という出来事が起こります。

残念ながら、この時の赤眉軍はあくまで農民による反乱軍という位置づけで、新王朝の滅亡に大きく貢献しましたが、後に後漢を開くことになる光武帝(劉秀)と対立して敗れてしまい、消滅することとなりました。

「烏合の衆」の故事成語についてちょっとだけ詳しく書いているので、下の記事乌合之众( wū hé zhī zhòng )もぜひ合わせて読んでみてくださいね。

参照

百度百科「呂母」(中文)

『漢書』「王莽伝」(下)(維基文庫)

『漢書』「百官公卿表上」維基文庫

『後漢書』「劉盆子列伝」(維基文庫)

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