丽姬之乱( lì jī zhī luàn):麗姫の乱(驪姫の乱)

丽姬( lì jī )とは

丽姬( lì jī:麗姫または驪姫)とは戦国時代の晋国献公の夫人であり、当時は絶世の美女であると言われていました。

「沉鱼落雁」の故事に出てくる「沈魚」とは「西施」のことではなく、もともとは麗姫のことを指していました。

西施に関する故事成語については下の記事にまとめてありますので、ぜひ読んでみてくださいね。

麗姫は別名「驪姫」ともいい、もともとは戎(じゅう)族という騎馬民族の一派である驪戎(りじゅう)の国君の娘でした。以下、「驪姫」で統一します。

驪戎(りじゅう)とは、現在の陝西省西安市の東側に拠点を構えていましたが、紀元前672年に晋国との戦いに敗れてしまい、その際に和議の証として驪戎が晋国の「献公」に送ったのが驪姫でした。

この時、驪姫の妹の「少姫」も一緒に晋国の送られることになりました。

晋の献公には初め3人の子どもがいて、それぞれ「斉姜」の「申生」、「狐姫」の「重耳」、「小戎子」の「夷吾」といい、とても優秀な息子たちだったと言われています。

その後、驪戎との戦いに勝利した後、晋国に驪姫と少姫の姉妹が送られてきました。

当初、献公は驪姫を自らの夫人にしようとしましたが周囲からの強い反対に遭ってしまったため、占いによって吉凶を判断することにしました。

「卜」(ぼく)と「筮」(ぜい)の2種類の占いで占ってみたところ、卜では「凶」、筮では「吉」と出ました。

占い師曰く、卜のほうが筮よりも信用できるとのことでしたが、献公は筮の結果を信じ、驪姫を夫人にすることに決めてしまいました。

丽姬之乱( lì jī zhī luàn):麗姫の乱(驪姫の乱)

その後、驪姫は献公からの寵愛を受けると、驪姫は「奚斉」という息子を生みました。一方、妹の「少姫」には「卓子」が授かりました。

やがて、驪姫は自分の息子である奚斉を後継者にしようと考えるようになり、そのためにはどうしても申生などの兄が邪魔でしかたありませんでした。

そこで、驪姫は献公が信用を置く「大夫」である「梁五」などに賄賂を送り、晋国の辺境に侵入してくる異民族からの領土防衛を名目として、後継者となる「太子」のポストに就く申生や重耳や夷吾の三兄弟を辺境の地へ送るよう献公を説得させることに成功しました。

紀元前656年、驪姫は申生を亡き者にしようとしてある計略を巡らせました。

まず、申生に斉姜(申生の亡き母)が夢に出てきたので曲沃に行き母を祭るように言うと、申生は言われたとおり曲沃で母を祭り、祭祀に使った肉や酒を持ち帰ってくると、それらを献公へと献上することになりました。

もちろんそれも驪姫の指示でした。

その際、驪姫はその肉と酒にこっそりと毒を入れると、献公への献上の前に「お毒味」をするように提案しました。

そして、その肉を食べた犬は死んでしまい、同様にして身分の低い臣下も死んでしまいました。

申生が持ち帰ってきたものに毒が盛られていたことから、献公を毒殺しようと試みたのではないかと疑われた申生はそのまま曲沃に逃亡してしまいました。

その後、献公に申し開きをするべきだと進言した者がいましたが、それに対して申生はこう答えました。

「驪姫がいなくては父は安心して寝食できないだろう

それに、私が申し開きをすれば驪姫は罰せられるだろう

父はもう年であるし、私も何かしてあげられるわけでもない」

そして、12月17日に申生は曲沃で首を吊って自害しました。

申生を死に追いやることに成功した驪姫の野望はまだ尽きることはなく、今度は辺境の地にいる重耳と夷吾を攻めるよう献公を説得し、これによりふたりとも国外へと逃亡してしまいました。

紀元前651年9月に献公が亡くなると、驪姫の子どもである奚斉が15歳で即位することになりました。

「国相」として「荀息」が補佐することになりましたが、翌月の10月、前君主の献公がまだ安葬されていないなかで、「大夫」である「里克」が即位間もない奚斉を殺害しました。

今度は少姫の子どもである卓子が即位しましたが、その翌月の11月に里克が再び卓子を殺害すると、荀息は自害。

この時、卓子とともに驪姫も殺されてしまいました。

里克は重耳を帰国させて即位させようとしましたが、重耳はこれを固辞。

結局、紀元前650年に「夷吾」が即位するかたちでようやく驪姫の乱は収束することとなりました。

「卜」(ぼく)と「筮」(ぜい)

「占い」と聞くと現代だと身近なもので言えば「星座占い」や「タロット占い」、「手相占い」といったところでしょうか。

私も雑誌などに載っている星座占いは意外と気にして見ていますが、気にしすぎると病んでしまうのであくまでも参考程度に見ているという感じです。

さて、晋の献公が驪姫を夫人にしようとした際、周囲から強い反対に遭ってしまった献公は占いに頼ることにしましたが、その時に用いた占いが「卜」(ぼく)「筮」(ぜい)でした。

「卜」とは亀の甲羅を使う占いのことで「亀卜」(きぼく)とも呼ばれています。

やり方としては亀の甲羅を乾燥させて薄く加工し、その甲羅にあけた溝などの部分に燃やした木片などを押しつけて、ひびの入り具合で吉凶や方角を占うものとされているようです。

古代中国では殷の時代で盛んに行われていたとされていて、その占いの結果を甲羅に刻んだものが歴史の授業でも習った「甲骨文字」になります。

日本には奈良時代に伝来したとされていて、それまでニホンジカの肩甲骨を用いた占いから「亀卜」へと切り替わっていったとされています。

一方の「筮」とは「ノコギリソウ」と呼ばれる草を筮竹として用いる占いのことになり、「筮卜」(ぜいぼく)とも呼ばれています。

ノコギリソウを筮竹として使うにはノコギリソウの枝葉をとって乾燥させてから使います。

まとめ

驪姫の乱についてみてきましたがいかがだったでしょうか。

世が乱れているだけ合ってちょっと血なまぐさい話がたくさん登場します。

驪姫は和議の印として晋国に送られてきた当初は故郷に思いを馳せて毎日のように悲しみに明け暮れていたと言われています。

そんな彼女もいつしか子どもを生み、その子どものために周囲の人間を欺きながら人を貶め、また自らの手は汚さずに人を殺めていくことになりました。

彼女の本意というよりかは、数々の不幸な運命が彼女をそのようにさせたのかもしれません。

やっとのことで自分の子どもが君主になれたかと思った矢先、臣下によって息子の命が奪われてしまい、その翌月には自分自身も命を奪われてしまう。

「驪姫の乱」とは、時代や立場という「毒」が、ひとりの純粋な女性の心をじょじょに侵していき、悲惨な運命を歩ませた悲しい物語という側面もあるといえるのかもしれません。

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「miho」さん - パンダ

「ID23759804」さん - 少女 (LovePikより)

chinese-mao

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