【韓国語】사면초가(四面楚歌)

사면초가(四面楚歌):意味

日本語の四字熟語としてもおなじみの四面楚歌は、韓国語では「사면초가」(四面楚歌)といい、四方を敵に囲まれ孤立無援の状態であることをいいます。

そこから「사면초가」(四面楚歌)は、「敵に囲まれて孤立し、助けがないこと」「周囲の人たちが反対者ばかりであること」「孤立無援の窮地に陥っていること」になります。

사면초가(四面楚歌):あらすじ

劉邦率いる漢軍などによって包囲された項羽が、四方から聞こえてくる楚国の歌を聞いて驚いたいう話。

사면초가(四面楚歌):故事

数百年に及ぶ分裂状態に終止符を打ち、紀元前221年に中華を統一した秦の始皇帝でしたが、紀元前210年、遊行中に崩御してしまうと、その詔により長子の扶蘇が次期皇帝に即位することになりました。

しかし、始皇帝の死はすぐに公にされることはなく、始皇帝に随行していた趙高は始皇帝の末子である胡亥(秦二世)や李斯を説得すると、偽の詔を発して長子扶蘇を自害に追い込み、胡亥が次の皇帝として即位することになりました。

しかし翌年の7月になると、厳格な法律による秦の統治に対して反発した農民らによる陳勝・呉広の乱が発生し、これにより“反秦”の流れは全国的に加速していくことになりました。

その後、紀元前206年に秦の都であった咸陽に劉邦率いる軍が入城し、ここに秦は事実上滅亡することになりました。

関中に一番乗りした者が次の関中王になるという楚の懐王の約束通り、劉邦が関中王になるはずでしたが、当時圧倒的な軍事力を誇っていた西楚の項羽によりその約束は反故にされてしまい、劉邦は漢中王に封じられることになりました。

翌年の紀元前205年、斉の討伐に苦戦していた項羽の隙を突く形で、劉邦は一気に関中を制圧、さらには諸侯らを味方に引き入れると、劉邦率いる連合軍はそのまま東進して西楚の都であった彭城(現在の江蘇省徐州市)を攻めて陥落させました。

彭城に入城した連合軍でしたが、そこで略奪や暴行の限りを尽くし、それに激怒した項羽は斉から精兵3万を率いて彭城に引き返すと、完全に油断しきっていた連合軍は大敗を喫してしまいました(彭城の戦い)。

何とか滎陽(現在の河南省滎陽市)まで逃げ延びた劉邦は、さらに関中まで引き返して態勢を立て直すことにしました。

その後、滎陽の北にある広武山で劉邦と項羽の両軍は再び対峙する形となりましたが、長期化により食糧が尽きたりなどしたため天下を二分することを約してそれぞれの本拠地に帰還することになりました。

ここで劉邦軍は部下の進言により項羽軍を背後から襲おうとしたものの、加勢するはずだった韓信と彭越の両軍はともに動こうとせず、その間に劉邦軍の異変を察知した項羽軍も反撃してきたため、劉邦軍は大打撃を受けてしまいました。

劉邦が韓信と彭越に戦後の恩賞を約束したことによりようやく両軍は出陣し、他の諸侯も次々と劉邦に合流して垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に集結しました。

これが「四面楚歌」の故事成語のもとになった「垓下の戦い」(해하 전투)になります。

項羽率いる楚軍は垓下の砦にこもっていましたが、兵は少なく食糧も尽き、対する劉邦率いる漢軍と諸侯らはこれを幾十にも包囲しました。

夜になり四方を取り囲む漢軍が楚歌を歌っているのを耳にした項羽は、「漢はすでに楚を得たというのか、(敵の中に)楚人のなんと多いことか」と驚きました。

項羽は悲歌を歌い嘆き、自ら詩を詠みました。

「力抜山兮氣蓋世(力山を抜き気は世を蓋う)

時不利兮騅不逝(時に利あらず騅逝かず)

騅不逝兮可奈何(騅逝かざる如何すべき)

虞兮虞兮奈若何(虞や虞や若を如何せんと)」

数回繰り返して歌うと、虞美人もこれに合わせて詩を作りました。

項羽ははらはらと涙を流すと側近の者たちもみな涙し、項羽の顔を仰ぎ見ることができる者は誰ひとりとしていませんでした。

その後、項羽は800あまりの騎士を引き連れると闇夜に乗じて包囲を突破して南下。明け方になり項羽がいないことに気付いた劉邦は、灌嬰に5000の騎兵でもって追撃をかけさせました。

追っ手を振り払いながら南下していた項羽でしたが、東城(現在の安徽省定遠県南東)に到着することには手勢はすでに28名になっていました。

対する漢軍の追っ手は数千。

そして、項羽は残された騎士たちに言いました。

「兵を起こしてから8年あまり、70あまりの戦をしてきたが、敵対したものは打ち破り、攻撃したものは征服し、これまで敗れたことはなく、ついには天下に覇を唱えるに至った。しかし今となってはここで苦境に立たされている。これは天が我を滅ぼそうとしているのであって、戦のせいではない。今日はもとより死を覚悟している、皆には思う存分に戦ってほしい。何としてでもこれに三度勝ち、将を斬り、旗を倒し、天が我を滅ぼすのであって、戦のせいではないということをそなたたちに知らせよう」。

そして、騎士を4隊に分け四方を向かせると、対する漢軍はこれを幾十にも取り囲んでいました。

項羽は叫びながら馬を走らせると、漢軍はみな敗走し、漢の将ひとりを討ち取りました。この時、郎中騎都尉だった楊喜は項羽を追撃していましたが、それを見た項羽が睨みつけ怒鳴ると、楊喜たちは驚きのあまり尻込みして数里も後退しました。

漢軍は項羽の居場所がつかめず軍を三隊にわけて取り囲もうとしましたが、項羽はさらに都尉ひとりと兵数百人を討ち取ると、対する項羽側は2騎を失っただけでした。

項羽は他のものたちに「どうだ」と聞くと、みな「王の言うとおりにございます」と答えました。

その後、項羽は烏江を東へと渡ろうとしていました。烏江の亭長は船を準備して待っており、項羽に言いました。

「江東は小さいながらも地は千里、民の数は十万になる、王となるには十分です。早くお渡りになってください。今船があるのは私だけですので、漢軍が来ても渡ることはできません」。

項羽は笑いながら答えました。

「天が我を滅ぼすというのになぜ渡る必要があろうか。それに我は江東の子弟8000とともに江を西に渡ったが、今となっては誰ひとりとして帰る者はいない。仮に江東の父兄が我を憐れんで王としてくれたとしても、どのような面目で彼らと会うことができようか。彼らが何も言わなかったとしても、どうして我が恥じ入らないことがあろうか」。

項羽はさらに続けて言いました。

「我はそなたが有徳の者であると理解した。我はこの馬に5年乗っていたが、向かうところ敵なし、これまで一日に千里を走ったことがある。これを殺すには忍びないから、そなたに差し上げよう」。

すると、項羽は騎士たちを馬から下ろさせると、敵中に斬り込んで行き、項羽はひとりで漢軍兵士を数百人を討ち取りましたが、項羽自身も10数カ所に傷を負ってしまいました。

項羽はあたりを見回すと、敵兵の中に旧友がいるのを見つけると、「そなたは昔なじみではないか」と言うと、「漢は我が首に千金と一万戸の領地を懸けていると聞く、そなたに恩徳を施そう」と叫ぶと、自らの首を刎ねて自害しました。

項羽には懸賞金などが懸けられていたことから、手柄となる項羽の死体を手に入れようとして他の兵士たちは互いに踏みつけ殺し合いながら争い、数十人が犠牲になりました。

その後、項羽の死体は5人の武将で分け合うことになり、それぞれ楚の地を分割して封じられることになりました。

項羽が亡くなると楚はみな漢に降伏しましたが、魯だけが一向に降りませんでした。これに対して劉邦は魯を攻め滅ぼそうとしましたが、項羽の首を持って行き見せると、魯はようやく降伏することになりました。

これにより、4年にわたる楚漢戦争は終結し、劉邦はその後400年あまり続く漢王朝を開くことになります。

出典《사기》「항우본기」【史記・項羽本紀】

항왕의 군대는 해하에 방어벽을 구축했지만 병사는 적고 양식은 다 떨어져 한군과 제후 군에 몇 겹으로 포위당했다. 밤이 되자 한군의 사방에서 초의 노래가 들렸다. 항왕이 크게 놀라며 “한군이 이미 초를 손에 넣었던 말인가? 어찌 이리도 초 사람들이 많단 말인가”라고 했다. 

今回の故事成語である「사면초가」(四面楚歌)は、司馬遷による『사기』(史記)「항우본기」(項羽本紀)が出典となっています。

紀元前221年に史上初めて中華を統一した始皇帝でしたが、紀元前210年に亡くなると趙高の策略により長子の扶蘇ではなく末子の胡亥(秦二世)が皇帝として即位することになりました。

しかしその翌年、辺境防備のために徴発された農民が目的地に移動中に大雨に遭ってしまったために道が水没、期日までの到着は絶望となってしまいました。

というのも、当時の秦の法律では、徴発された農民はいかなる理由があろうとも期日通りに目的地に到着しなければならず、到着できなければみな斬首となることが定められていたといわれています。

徴発された農民たちの中にいたのが屯長だった陳勝と呉広で、ふたりは上官を殺害すると他の者たちを説得し、大澤郷(現在の中国安徽省宿州市南東)で蜂起することになりました。

これが陳勝・呉広の乱(大澤郷起義、진승·오광의 난)になります。

この乱を皮切りに、厳格な法による秦の統治に対する反動で各地で“反秦”の動きが加速していくことになり、その流れの中で項羽と劉邦は次第に頭角を現していくことになります。

そして、紀元前206年に秦の都であった咸陽が劉邦によって陥落すると秦は事実上滅亡し、その後、項羽と劉邦による「楚漢戦争」(초한전쟁、楚漢戰爭)が勃発することになります。

最終的に、紀元前202年の垓下の戦いによって項羽の敗北は決定的になり、劉邦はその後400年あまり続く漢王朝を開き、中華はしばらく安定した時期を迎えることになります。

例文

사면초가에 빠지다

(四面楚歌に陥る)

그야말로 사면초가였다.

(まさに四面楚歌だった)

 퇴진 압력으로  ●●총리는 사면초가의 위기이다.

(退陣圧力により●●総理は四面楚歌の危機だ)

参照

「사면초가」(나무위키)

『사기』「항우본기(項羽本紀)」(위키문헌)

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「せいじん」さん - ネコ

「miho.panda」さん - パンダ

「月猫」さん - 後ろ向きのネコ

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