【故事成語】井底之蛙( jǐng dǐ zhī wā )

目次
井底之蛙(jǐng dǐ zhī wā):あらすじ


井戸の中に住んでいたカエルのところにカメがやって来ると、カエルは井戸の中での生活がどれだけ愉快かを説明しましたが、カメは井戸の中よりも海のほうがもっと広いことを教えてあげると、カエルはとても驚いたという話。
井底之蛙(jǐng dǐ zhī wā):故事
昔、井戸の中に住んでいた一匹のカエルは、ある日、東海からやって来たカメと出会いました。
カエルはカメに言いました。
「私はとても愉快だ。井戸から出てその縁で跳びはねることもできるし、井戸に戻れば壁の壊れた所の隙間で休むこともできる。
脇まで水に浸かり顎を持ち上げながら泳いで、泥水を蹴れば脚と足の甲は泥の中に埋もれる。
ボウフラ、カニ、オタマジャクシはみな私には敵わない。
自分こそが井の主。君もたまには井戸の中を見てみたらどうだい」
そこでカメは井戸の中に入ろうとしましたが、左足が入らないうちに右の膝が引っかかってしまい、結局は入ることができませんでした。
そこで、カメは海のことについて話しました。
「君は海をみたことはあるかい。それは千里でも広いとは言えず、千仞でも深いとは言えない。
“大禹の治水”の10年のうち9回は洪水に見舞われたが海があふれることはなかった。
商湯の時代、8年のうち7年は干ばつに見舞われたが岸が後退することはなかった。
海は時間の経過や雨量で増えたり減ったりすることはない。これこそが東海の喜びである」
それを聞いたカエルは驚き、自分のいる場所が取るに足らないことをようやく知りました。
井底之蛙(jǐng dǐ zhī wā):意味
「井底之蛙」の意味をご存じの方も多いと思うので言うまでもないかもしれませんが、「井の中の蛙」とは「見識が狭く、大局的な判断ができないこと」や、そういう人のことを言います。
また、「視野が狭く、自分が正しいと思い他人の意見を聞き入れないこと」もいい、問題を解決するときや物事を見るときには、俯瞰して全体をみるようにするという戒めの話でもあります。
出典《荘子・秋水》
《庄子・秋水》「井蛙不可以语于海者,拘于虚也。」

今回の故事成語である「井底之蛙」の故事は『荘子』外篇の「秋水」に登場します。
「井の中の蛙」という言葉自体は「秋水」の冒頭部分の河伯(黄河の神)と北海若(渤海の神)の対話の中に出てきます。「井底之蛙」という言葉自体は出てくることはなく「井蛙」や「井之蛙」という言葉のみが出てきます。
「中国哲学书电子化计划-《庄子》-外篇-秋水」のから原文が読めます。
秋水
夔谓蚿曰:”吾以一足趻踔而行,予无如矣。今子之使万足,独奈何?”蚿曰:”不然。子不见夫唾者乎?喷则大者如珠,小者如雾,杂而下者不可胜数也。今予动吾天机,而不知其所以然。” 蚿谓蛇曰:”吾以众足行,而不及子之无足,何也?”蛇曰:”夫天机之所动,何可易邪?吾安用足哉!” …
原文に出てくる話は次のようになります。(以下、拙訳)
「秋になり川に降り注いだ雨がやがて黄河へと流れ入ったことで川幅が広くなったので、それをみた河伯は世の美しきものがすべて自分の所に集まって来ていると思いました。
河伯は川の流れに沿って東へ向かい、東海を一望できる河口までやって来ましたが、海の向こうの東の果てをいくら見回しても対岸が見当たりませんでした。
河伯はため息をついて北海若に言いました。
「わずかばかりの道理を理解しただけで自分に敵うものはないと思い込むという言葉がありますが、それは私のことだったのですね」
自らの誤りを恥じた河伯に、北海若は言いました。
「井蛙不可以语于海者,拘于虚也。」
(井の蛙は大海について語ることができない、なぜなら“虚”に縛られているからである)
「夏虫不可以语于冰者,笃于时也」
(夏の虫は氷について語ることができない、なぜなら“時”に縛られているからである)
「曲士不可以语于道者,束于教也」
(曲士は“道”について語ることができない、なぜなら“教”に縛られているからである)」
ここでいう“虚”とは「住んでいる場所」や「狭い空間」という意味になり、また、“曲士”と“教”の意味はそれぞれ「見識の狭い人」と「教養」になります。
北海若自身、石ころや木くずが山の中にあるように、結局のところ自分自身も天地の間に存在するちっぽけな存在に過ぎない訳だから、いくら自分が千万の川を合わせた水量より多かったとしてもそれがいったい何なのだと続けます。
五帝の偉業も、三王が争った天下も、仁人が苦悩した事柄などはすべてこのようなちっぽけなものでしかない。
伯夷辞が周王から授かった官位で名声を得ることも、孔子が仁や礼を説いて自らの博識を示すことも、河伯が自分を一番だと思っていたことと同じではないかとして一旦話は終わります。
そこから話は飛びまして
「中国哲学书电子化计划-《庄子》-外篇-秋水」の「10」のところで今回の「井底之蛙」の故事が出てきます。
これは孔子の弟子のひとりであった公孫竜という人物と、魏牟(ぎぼう:戦国期、中山国の王子)という人物の対話に登場する話です。
荘子 ─『荘子の世界』─ 秋の洪水[荘子外篇第十七 秋水篇](その2)
「樺山三郎」さんという方が英文を日本語に翻訳されたものになりますので読んで見てくださいね。
若い頃に先王の主張を学び、仁義とは何なのかを理解したと思っていた公孫竜が荘子の話を聞いてさらに訳が分からなくなってしまい、それは自分の考え方が荘子に及ばないからなのか、それとも、自分の知識が荘子に及ばないからなのかということについて魏牟に意見を求めるというところから話が始まります。
それを聞いた魏牟は長いため息をついて、まずは今回の「井底之蛙」の故事を話します。
それを聞いてショックを受けた(であろう)公孫竜に魏牟はさらに追い打ちをかけるように話を続けます。
公孫竜の才知では是非が分からないのにもかかわらず、それで荘子の教えを理解しようとすることは、蚊に山を背負わせ、やすでに川の中を走らせるようなものであると指摘します。
また、極めて深淵な論を理解するのにはその才知では不十分なのに、一時的な“勝利”に自ら迎合するというのは、井の中のカエルと同じではないのかとも指摘します。
そして、浅はかな考察によってその奥深さを探ろうとし、議論によってその真理を探ろうとしていることは、竹の筒から遠くの空をのぞき込むようなものであり、錐で大地を測るようなものだと言うと、最後にとどめの一撃とばかりに次のような話をしました。
昔、趙国の邯鄲を訪れた燕国寿陵の若者が趙国の人たちの歩き方を真似たものの、それを習得できなかったばかりか本来の歩き方まで忘れてしまい、しまいには地に這いつくばりながら帰って行ったという話。
このままここにいればその話に出てくる彼と同じになってしまうのではないかと言われた公孫竜は、驚きのあまり開いた口が塞がらず、すぐにその場を去ってしまいました。
これが後に、日本語でもおなじみの「邯鄲の歩み」という故事成語のもとになる故事になりました。
詳しくは下の記事「邯郸学步」にまとめてありますので、ぜひ読んで見てくださいね。
「邯鄲の歩み」とは「他人をむやみに真似て習得できないばかりか、自分本来のものまで失ってしまう」という意味になります。
それは、私がイチローさんや梅原大悟さん、ホリエモンさんたちの考え方や行動を「あれもいい、これもいい」とむやみやたらに取り入れてしまった結果(自分としてはいいとこ取りしているつもり)
彼らのような思考や生活習慣を自分のものにできなかったばかりか、本来自分が持っている「自分らしさ」や「自分らしい長所」を忘れてしまい、最終的には生き方や人生の方向に迷ってしまったというのと同じことです。
自分は彼らの生き方や考え方についての「ノウハウ」を理解して習得したつもりになっていただけで、気が付けば何一つとして前進していなかったという実話ですwww
これを読んで笑ってくれた人の分だけ私は癒やしを得ますよwww
自分のやりたいことに素直に向き合って覚悟をもって行動すれば、0.1㎝でも前進はするもんだなと思う今日この頃です。
ちょっと深掘り
「井の中の蛙」ですが、その後に「大海を知らず」と続いたり、さらに「されど空の蒼さを知る」と続ける場合もあります。
「されど空の蒼さを知る」 と続いた場合には、見識が狭いというネガティブなイメージは薄れて、むしろ「知識は偏っているけどその分野に精通している」というポジティブなニュアンスになるようです。
ちなみに 「されど空の蒼さを知る」 は日本に井の中の蛙という言葉が伝わってきてから後付けされた言葉のようです。
ちなみに色々と調べていくとこの井の中の蛙の話には複数の話があるようで、例えば、カエルは自分が一番大きな存在だと思っていたところにカメがやってきてそうではないことを諭すバージョンや、カメではなく小鳥と対話をするバージョンもあります。
小鳥と対話するバージョンは「井底之蛙」ではなく、「坐井观天」という故事成語の話として中国の小学校2年生用の国語教科書に出てくるようですが、カエル自身が自分の見ていること、感じていることがすべてだと言うことに対して、そうではないことを諭すのは共通してるので意味に差はないようです。
「坐井观天」の詳しい内容については下の記事「坐井观天」にまとめてありますので、ぜひ読んで見てくださいね。
さて、語学を勉強している方は分かるかもしれませんが、語学の習得にはいくつもの「壁」があるように思います。
例えば思い出してみて欲しいのですが、中国語であれ英語であれ韓国語であれ、学び初めた頃は新しい単語などを知るたびに、どこか自分が大きく成長したような感じではなかったでしょうか。
「0」だったものが「100」や「1000」になったと言う感覚。
日本語だけでしか見えていなかった世界が急に広がる感じ。
読めなかったものが読めるようになった、聞き取れなかったものが聞き取れるようになった。
話せなかったのに外国語で意思疎通ができるようになった。
初めの頃のそういう感動や自信というのは、その後の語学学習を続けるモチベーションのひとつとしてはとても大事なものだと思います。
しかし、その後に「壁」が目の前に立ちはだかる時ってないでしょうか。
どこかこう自分が成長している感じがしない。
やっているのに何か覚えられない(ように感じる)。
初めの頃のように感じていた感動が薄れている感覚。
そして何より、読めない、聞き取れない、話せない(ように感じる)・・・・・・。
私は何をするにも要領が悪くものすごく不器用な人間なので、もしかしたら語学学習で壁にぶち当たることの方が珍しいのかもしれませんが、ここは私の経験をもとにちょっとだけ話をしたいと思います。
あれだけ理解できていた(かと思っていた)のに読んだりするのが難しくなって理解できなくなってしまう。
これって河伯の話とどこか似ている気がします。
自分は中国語初級という川にいて中国語ができているような感覚になっていた。
しかし、いざ海(中国語超弩級)に来てみると、つまり、より高いレベルものに触れたときに初めて自分の実力の小ささや実力不足に気付かされてしまう。
「中国語ができる」という自信がたちまち「俺、中国語が全然できないじゃん」ヘと変わってしまいます。
まさに「井底之蛙」です。
それまでは自分のレベルにあった教科書や教材ばかりなどをやっていたので気付かなかっただけで、上のレベルの人からしたらそんなことは取るに足らない実力であったという事実。
「上には上がいる」という言葉を知っていて頭では分かっていても、やはり自分が一生懸命やって来たものでそういう現実を見せつけられるとだいぶショックを受けてしまいます。
では、ここで河伯の話に戻ります。
河伯は海を目の当たりにしたことで北海若に自分の見識の狭さを嘆きました。
なので北海若もその後に河伯にいろいろな話をするわけですが、もしもここで河伯が自分の見識の狭さを恥じなかったばかりか、目の前にある海に背を向けて自分の河へと戻っていたとしたらどうでしょうか。
もしも自分のレベル以上の教科書や教材などをやっていたのに、難しいとか分からない、自分には無理だという理由で途中でやるのを諦めてしまったり、居心地の良い前のレベルのところに戻ってしまったら、自分の中国語のレベルは上がっていたでしょうか。
語学学習に限らず何でもそうかもしれませんが、「壁」にぶち当たって悩んだり落ち込んだりするというのは、結局のところ、知らず知らずのうちに自分はもう前のステージをクリアしていて次のステージにすでに進んでいるということなのだと思います。
進むか戻るかは、あとはもう自分次第だとは思いますが。
ただ、次のステージに進んでいくには、それまで積み上げてきた「プライド」なり「自信」というものを新たなステージのスタート地点にそっと置いて行ったほうが、その先もっと身軽に進んでいけるのかもしれませんが・・・・・・。
例文
人要放开视野,不能做井底之蛙。
你真是一个井底之蛙。
世界如此大,我们都是井底之蛙。
千万不要做井底之蛙。
類義語
坐井观天( zuò jǐng guān tiān ):井戸の中から天を見る、見識の狭いこと
一孔之见( yī kǒng zhī jiàn ):(謙譲語として)見識が狭く偏っていること
対義語
见多识广( jiàn duō shī guǎng ):博識で経験が多い、経験豊富で知識が広い
【韓国語】우물 안 개구리(井の中の蛙)
韓国語の「井の中の蛙」については以下の記事【韓国語】우물 안 개구리(井の中の蛙)にまとめてありますので、ぜひ読んでみてくださいね。

イラストレーターの皆さん
この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。
・「せいじん」さん - ネコ
・「miho」さん - パンダ
・「佐桃冬雪」さん - 井戸
・「ちみ」さん - テレビ
・「がらくった」さん - テレビ画面の中の海
・「Ribonca」さん - カエル(傘持ち)
4件のフィードバック