【故事成語】画饼充饥( huà bǐng chōng jī )

画饼充饥( huà bǐng chōng jī ):意味

「画饼充饥」( huà bǐng chōng jī )は、餅を画きて飢えを充たすことから、名のみで実がないことや、「望梅止渴」という故事成語と同じで空想により自らを慰めるという意味になります。

日本語の画餅(がべい)は絵に描いたもちということから、実際の役に立たないものの例えとして用いられますが、この「画饼充饥」がもとになっているかどうかは不明です。

ちなみに、考えていたことや計画していたことが実際にやってみたら何の役にも立たずむだになってしまうことを、画餅を使って画餅に帰すといいます。

また、絵に描いたようには無駄であるとか無用であると言う意味はなく、「絵に描いたような景色」のように美しくて素晴らしい様子を表したり、「幸せを絵に描いたような家族」のように典型的な事柄や状態であることを表す時に用いられるので混同しないように注意しましょう。

たまに「絵に描いたよう」と「絵に描いた餅」を混同して、「絵に描いたような餅」とすることがありますが、これはどうやら間違いのようなので気を付けたいですね。

画饼充饥( huà bǐng chōng jī ):あらすじ

人材を登用しようとした際に、その人の名声だけを参考にしてしまっては結局のところ地面に描いた餅と同じで何の役にも立たないと言ったという話。

画饼充饥( huà bǐng chōng jī ):故事

三国時代、魏国の第2代皇帝である明帝(曹叡)の時代。

侍中(皇帝のそばで顧問に応ずる官)を務めていた蘆毓(ろいく)という臣下がいましたが、その在任中の3年間は幾度となく明帝と意見が対立したと言われています。

明帝は言いました。

「その才に応じて登用し、官位を授けるというのは、賢明な君主といえども容易なことではない、良臣の補佐があってこそ官吏の昇格や降格、改任をきちんとすることができる。

侍中である蘆毓は忠誠で二心がなく、心穏やかで礼儀もわきまえており、職責を全うしている功臣であるということができるから、私は蘆毓を吏部尚書に任ずることとする」

明帝は、蘆毓に自身の代わりとなる人物を侍中として選任させたところ、常侍である鄭衝(ていしょう)を推挙しました。

しかし、明帝は鄭衝のことはよく知っているということで、自身がまだ名も聞いたことのない人物を推挙するように要求しました。

そこで蘆毓は阮武(げんぶ)と孫邕(そんよう)の名を挙げると、明帝は孫邕を侍中として登用することにしました。

これより前、諸葛誕(しょかつたん)や鄭颺(ていよう)などの名が広く知られていましたが、中には彼らを「四聡八達」と揶揄する者もいて、明帝も彼らのことを同様に嫌っていました。

当時、魏国では中書郎の官職に就く者を求めていました。

明帝は言いました。

「適格な者が就けるかどうかは蘆毓しだいである。

名がある者だけを選ばないようにして欲しい。

名声は地面に描いた餅のように、食べることができないからだ」

これに対して蘆毓は答えました。

「名声は異人(圧倒的に優れた人)を集めるには不十分ですが、“常士”を得ることはできます。

常士は教養を重んじ善美に心を注いで初めて名を挙げるわけですから、彼らを憎むべきではありません。

愚臣は奇才や異人をきちんと見分けられないだけでなく、名声と慣習に基づいて官職を要求してきますから、今後は彼らに対して考査したほうがいいでしょう。

“政務はあまねく上奏し、功はきちんと考査すべし”との言葉が古代からあります。

政績を考査する現行の制度は既に廃れてしまっており、主観的な評価が官職の昇格や降格などを決定するようになってしまっているので、真偽が混在し、虚実の見分けがつかなくなっています」

明帝はこの意見を取り入れることにし、官吏を審査する制度である「考課法」を制定することとなりました。

出典《三国志·魏書·蘆毓伝》

《三国志·魏书·卢毓传》:“选举莫取有名,名如画地作饼,不可啖也。”

今回の故事成語である「画饼充饥」の故事は『三国志』「魏書・蘆毓伝」(ろいくでん)に登場します。

時代としては、曹操の息子の曹丕の長男であり、魏の第2代皇帝の明帝である曹叡の頃になり、230年代となります。

蘆毓(183~257年)は幽州涿郡(現在の河北省保定市涿州市)の出身で、10歳で父を亡くすと、2人の兄も戦乱によって亡くしてしまい、自身は勉学に励みながら亡き兄の妻とその子どもの面倒を見ていました。

当時は、袁紹と公孫瓚が争っていたため幽州と冀州では飢饉が発生しており、生活は非常に苦しいものでした。

五官中郎将であった曹丕により召し出され、崔琰(さいえん)の推挙により冀州の「主簿」(文書を司る官吏)となりました。

その後は、吏部郎侍中吏部尚書などを歴任すると、257年に亡くなりました。

ちなみに、崔琰というと「大器晩成」の故事成語のもとになった故事に登場する「崔林」の従兄になりますが、詳しい内容は下の記事「大器晚成」にまとめてありますので、ぜひ読んでみてくださいね。

「常士」とは「普通の人」?

明帝が蘆毓に「中書郎」の適任者を選ばせるところで、名声がある人を毛嫌いする明帝に対して蘆毓は「常士を得ることはできます」と助言するシーンが出てきます。

この「常士」ですが、他サイトや中国語のサイトでも「普通の人」や「常士」と訳されていますが、私個人的にはその訳がどうもしっくり来ません。

かといって『三国志』の現代語訳を読んだことがあるわけではないので、この「常士」という言葉が日本語にどのように訳されているのかわかりません。

ということで、そのことについて自分なりに調べたことを記事「【三国志/画饼充饥】「常士」は「普通の人」なんかではない?!」にまとめてありますので、ぜひ読んでみてくださいね。

ちょっと深掘り

『三国志』の「魏志」には曹操の「武帝紀」や曹丕の「文帝紀」の他にも、曹叡について書かれた「明帝紀」というものもありますが、「明帝紀」に少し気になる話があったので紹介したいと思います。

話は以下の通りになります。

「青竜3年(235年)、寿春(現在の安徽省淮南市寿県)のとある農夫の妻が、自らを天神が遣わした者であると称し、自分を皇宮に“安置”すれば、明帝のために災いを祓い、邪を退け、それにより明帝の寿命は増え幸福に暮らすことができると言いました。

また、彼女が病人に水を飲ませると、その人の病は癒え、水で傷口をすすげば、これまたその傷は癒えました。

これを見た明帝はたいへん驚き、特別に住まいを与えると、彼女の能力を褒め称えて寵愛しました。

その後、明帝の病が重くなり彼女の“神水”を飲んでみたものの、まったく効果がありませんでした。

明帝は怒りのあまり、彼女を処刑してしまいました。」

“神水”によって病人やケガ人を癒やしていた彼女ですが、原文には「命为登女」とあります。

この「命」は「名」にも通じることから「(彼女の)名は登女という」と訳している人もいますが、自信がなかったのでここでは省略しましたので、頭の片隅にでも適当にぶん投げておいてもらえればと思います。

例文

画饼充饥解决不了问题。

(空想に逃げても問題は解決できない)

他没女朋友,看着二次元的动漫画饼充饥

(彼はガールフレンドがいないので、二次元のアニメをみて自分を慰めている)

这种计划只不过是画饼充饥

(この計画は単なる現実逃避に過ぎない)

類義語

望梅止渴( wàng méi zhǐ kě ):空想により自らを慰める

対義語

自由自在( zì yóu zì zài ):自由で気ままである

如愿以偿( rú yuàn yǐ cháng ):願いがかなえられる、願い通りに希望を達する

参照

『三国志』「魏書・蘆毓伝」(中国哲学書電子化計画)

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「せいじん」さん - ネコ

「miho.panda」さん - パンダ

「まむのすけ」さん - 黒猫のフレーム 

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