【坐井观天】韓愈はヒゲ少なめのぽっちゃりだった?

坐井观天( zuò jǐng guān tiān ):意味

「坐井观天」( zuò jǐng guān tiān )は、「井に座して天を観る」ということから「井の中の蛙」と同義で「視野や見識の狭いこと」を意味し、またそういう人を皮肉る場合に用います。

坐井观天( zuò jǐng guān tiān ):あらすじ

老子の仁義の見解について、井戸の底に座りながら空を見上げて“空は小さい”と言っていることと同じだと例えて批判したという話。

坐井观天( zuò jǐng guān tiān ):故事

「井戸に坐して空を観る」ということから誕生した坐井观天( zuò jǐng guān tiān )の故事については、以下の記事坐井观天( zuò jǐng guān tiān )にちょっと詳しくまとめていますので、ぜひ読んで見てくださいね。

韓愈とは

韓愈(かんゆ:768~824年)は唐代の文人・思想家で、字を退之(たいし)といい、自身は韓信(韓王信)の末裔であると自称していました。

また韓愈は坐井观天( zuò jǐng guān tiān )という故事成語の故事の出典である『原道』の著者でもあります。

出身地については『旧唐書』の「韓愈伝」には“昌黎の人”(現在の河北省東部)と記載されていますが、『新唐書』の「韓愈伝」には“鄭州南陽の人”(現在の河南省南陽市)と記載されています。

韓愈は生まれてからほどなくして母親が亡くなり、3歳の時には父親の韓仲卿も亡くなってしまったため兄の韓会のもとに身を寄せて養われましたが、その後、兄が亡くなると兄嫁の鄭氏に養われることになりました。

その後はさまざまな官職を歴任しましたが、元和13年(818年)に憲宗(唐第14代皇帝)が鳳翔の法門寺の仏舎利(釈迦の遺骨)を招き入れて供養しようとしたことがありました。

それに対して韓愈が『論仏骨表』によって仏教をボロクソに貶して誡めたところ、それに腹を立てた憲宗によって一度は死罪になりかけてしまいましたが、裴度(はいど)などの諫言もあって死は免れましたが、潮州刺史(広東省潮州市一帯)に左遷されることになりました。

その翌年に憲宗が崩御すると、穆宗によって再び中央に召し出されると兵部侍郎吏部侍郞京兆尹などの官職を歴任し“韓吏部”といわれるようになりました。

長慶4年(824年)8月に病気を理由に休暇をとり、同年12月に長安にある自宅で56年の生涯に幕を閉じることになりました。

翌年の宝歴元年(825年)3月に河陽に埋葬されると、宋の元豊元年(1078年)には神宗(宋の第6第皇帝)によって昌黎伯が追封されると、孔子廟に従祀されることになりました。

そんな韓愈ついてですが、北宋の沈括(しんかつ)によって書かれた天文学や数学、物理、地理などさまざまな分野について記述された『夢渓筆談』という随筆集にはちょっと気になることが書かれています。

『夢渓筆談』の「弁証二」には韓愈の外見について言及している記述があり、その記述によると、多くの人が韓愈の外見について小顔で立派なひげを蓄えていると勘違いしているが、実際には太っていてひげもあまり生えていなかったとしています。

そこで今回の記事では、その『夢渓筆談』の「弁証二」にどのように書かれているのかについて見ていくことにしたいと思います。(以下、拙訳)

出典《夢渓筆談・弁証二》

■世人画韓退之,小面而美髯,著紗帽。此乃江南韓熙載耳,尚有当時所画,題志甚明。熙載諡文靖,江南人謂之韓文公,因此遂謬以為退之。退之肥而寡髯。元豊中,以退之従享文宣王廟,郡県所画,皆是熙載。後世不復可辯,退之遂為熙載矣。

■世人韓退之を画くに、小面にして美髯、紗帽を著(つ)く。此れ乃ち江南韓熙載のみ、なお当時画く所あり、題志甚だ明らかなり。熙載文靖と諡し、江南(南唐)の人これを韓文公と謂う、これより遂に退之と謬(あやま)り以為(おも)う。退之肥え寡髯なり。元豊中、退之を以て文宣王廟に従享し、郡県画く所みな是れ熙載なり。後世復た辨(わきま)えるべからず、退之遂に熙載と為る。

■世間の人は韓退之を小顔に立派なひげ、紗帽を被せて描いている。これは江南の韓熙載であるのに未だに韓退之だと思って描いているが、題志をみれば明らかである。韓熙載は文靖という諡(おくりな)を与えられたのだが、江南(南唐)の人はこれを韓文公と呼んだために韓熙載のことを誤って韓退之だと思ったのだ。韓退之は太っていてひげは少なかったのである。元豊年間に、韓退之は文宣王(孔子)廟にともに祀られることになったのだが、郡県が描いたのはみな韓熙載であった。後世の人は再び区別することができなくなったために、韓退之は遂に韓熙載となったのである。

韓熙載とは

先ほどの『夢渓筆談』の「弁証二」では、もともと韓熙載として描いたはずの人物画がいつしか韓愈(韓退之)と誤解されるようになってしまったと書かれています。

そもそも韓熙載とは誰ぞやということですが、韓熙載(902~970)は五代十国時代に南唐の吏部侍郎や兵部尚書などを務めていた人物で、韓愈が亡くなってからおよそ80年後に生まれました。

官僚としては優秀だったものの女性に関してはかなりだらしなかったとされており、かなり多くの姫侍(主人と男女の関係にある正妻以外の女性のこと、多く賤民出身)を抱えていたとされています。

女性たちと家で戯れる韓熙載の様子を描いたとされているのが、北京市の故旧博物院が所蔵する『韓熙載夜宴図』になり、これは南唐の宮廷画家である顧閎中(910~980)が描いたとされていますが、現存する『韓熙載夜宴図』は宋代の模本であるとされています。

なぜ誤解されたのか

そもそもなぜ100年も違う時代に生きていたにもかかわらず、後世の人は韓熙載の人物画を韓愈(韓退之)だと誤解してしまったのでしょうか。

その原因は韓愈が死後に与えられた諡(おくりな)が「文」だったことにありました。

『旧唐書』と『新唐書』の「韓愈伝」には、「諡曰文」(諡曰く文と)という記述があり、韓愈は死後に諡として「文」という名が与えられたことがわかります。

ここから、人々は韓愈のことを「韓文公」ともいうようになりました。

時代は下って韓熙載が亡くなると、諡として「文靖」が与えられることになったのですが、どういった理由でそうなったのかは分かりませんが、『夢渓筆談』の「弁証二」には、当時の江南(南唐)の人たちは韓熙載のことを「韓文公」と呼ぶようになったと書かれています。

要するに、韓愈の諡が文であったことから韓文公と呼ばれるようになったことと、それから150年くらいして韓熙載もまた死後に韓文公と呼ばれるようになったことが勘違いを生じてしまった原因になります。

自分では「へぇ~、これが韓文公(韓愈)なのかあ」と、韓文公(韓愈、韓退之)の人物画を見ていたつもりが、実際には韓熙載(韓文公)の人物画を見ていただけだったということになのでしょう。

韓熙載の人物画を描いた人は間違いなく自分は韓熙載(韓文公)を描いているんだと思って描いていたのでしょうが、それを見る側がきっと混同してしまうと、それがいつしか誤ったまま広まってしまったのかもしれません。

そして、北宋の神宗の治政である元豊年間(1078年~1085年)に、韓愈が孔子とともに廟に祭られることになり再び韓愈(韓文公)の人物画を描くことになった際にも、本人たちは韓文公(韓愈、韓退之)を描いていたつもりが、実際には韓熙載(韓文公)の人物画を描いてしまっていたというわけです。

描いた本人からしたら「いや、俺、韓文公(韓愈)描いただけだし」となりますし、見る人からしたら「いや、それ韓文公(韓熙載)じゃん」という感じなのでしょう。

韓愈の人物画

では、韓愈は本当はいったいどういう見た目をしていたのでしょうか。

『夢渓筆談』の「弁証二」には「退之肥而寡髯」とあり、実際には小顔で立派なひげを生やしているのではなく「太っていてひげは少なかった」としています。

韓愈についてWikipediaなどで検索してみると、韓愈の人物画として載っているのには主に3種類あります。

まずは中国語版Wikipediaなどの多くのサイト(主に中国語)で目にする韓愈とされる肖像画になります。(Wikipedia「韩愈」から引用)

2つめは日本語版Wikipediaに載っている韓愈とされる人物画になります。

中国語版Wikipediaなどに載っているものと比べると少しゴツい感じがしますが、ひげの生え方や目の切れ長の感じが似ています。

これは清代の民間画家である上官周による『晩笑堂竹荘画伝』に描かれているものになります。

ちなみに『晩笑堂竹荘画伝』とは歴代の聖賢や名臣、名将などを人物画とともに紹介されているものになります。

『晩笑堂竹荘画伝』より

最後の1枚は、北京市の故宮博物院の南薰殿にある『至聖先賢像冊』の韓愈像の画像になります。(「韩愈本来是个胖子,一不小心被画家整容成了大帅哥」から引用)

こちらは今までの画像と比べるとちょっとふっくらしているのと、頭にパンプキンパンのような帽子を被っていますが、右上の方をよく見てみると「昌黎伯 韓」と書いていていることから韓愈のことになります。

ちなみに昌黎とは現在の河北省秦皇島市南部の地のことで、韓愈は昌黎を群望(名声のある大氏族のことを望族といい、その望族の根拠地)であると自称していたことから、韓愈は韓昌黎とも言われていました。

最後に、出典は不明ですが「kuma」「17 – 韓愈 – Han Yu – かん ゆ (768-824) : l’extrémiste confucéen et grand prosateur」という記事から画像を引用させてもらいます。

この他にも3枚の画像が載っているので、興味のある方はアクセスしてみてくださいね。

こうして画像を見比べてみると、ひげに関しては立派に生えているもののそこまで多いという訳でもなく、また小顔というよりかはあご肉もきちんと(?)ついていて体型も年相応にふくよかな感じがしていることから、まさに「退之肥而寡髯」という記述に近いのではないでしょうか。

別に韓愈が小顔でもなければ立派なひげも生えていなかったことを証明したかった訳ではありませんが(笑)、『夢渓筆談』の「弁証二」の記述から色々と調べて見たらこんな感じの記事になってしまいました。

参照

『夢渓筆談』「弁証二」(維基文庫)

「韓愈」(中国語版Wikipedia)

『旧唐書』「韓愈伝」(維基文庫)

『新唐書』「韓愈伝」(維基文庫)

「韩愈本来是个胖子,一不小心被画家整容成了大帅哥」

「17 – 韓愈 – Han Yu – かん ゆ (768-824) : l’extrémiste confucéen et grand prosateur」(kuma)

【故事成語】推敲( tuī qiāo )

詩人の賈島(かとう)が詩を作っている時に、扉を推(おす)という表現が良いか、それとも敲(たたく)表現が良いか悩んでいたところ、韓愈の一言で敲という表現にすることに決めたという故事から誕生した推敲。

ちょっと詳しい内容は以下の記事【故事成語】推敲( tuī qiāo )にまとめていますので、ぜひ合わせて読んで見てくださいね。

【故事成語】坐井观天( zuò jǐng guān tiān )

「井に座して天を観る」ということから「井の中の蛙」と同義で「視野や見識の狭いこと」を意味し、またそういう人を皮肉る場合に用いる中国語の故事成語「坐井观天」( zuò jǐng guān tiān )

老子の仁義に対する見識の狭さを批判するのに用いた一文がもとになっています。

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「miho.panda」さん - パンダ

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2件のコメント

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