【邯郸学步】邯鄲で学んだのは“踊り”だった?!

邯郸( hán dān )とは

恐らく中国にあまり興味がなかったり中国語を学習したことがない人からすると、そもそも「邯郸」( hán dān )という言葉自体あまり聞いたことがないと思います。

「邯鄲って何だよ」という感じだと思いますが、まず読み方としては「邯鄲」は日本語で「かんたん」と読みます。

では「邯鄲」とは何かというと中国の「地名」になります。

いきなり中国の地名を聞かされても、それはアメリカに詳しくない私が「コネチカット州」の有名な都市の名前を聞かされるようなものだと思います。

あ、ちなみにコネチカット州の州都はハートフォード市だそうです……

邯鄲は現在、中国の河北省南部の中心都市として邯鄲市(地級市)の地名が残っています。

その歴史は古く、商王朝末期には既に存在していたと言うことから約3000年の歴史を有する都市で、戦国時代以前は「甘丹」と呼ばれていましたが、その後は「邯鄲」のままずっと呼称が変わっていないという中国でも珍しい都市になります。

戦国時代(紀元前5世紀~3世紀)には「戦国の七雄」のひとつであった趙国の都でもありました。

また、邯鄲市出身の歴史的人物は多く、有名どころで言えば秦の始皇帝や三国時代の曹操も邯鄲の生まれになります。

また、さまざまな故事成語などが誕生しており、日本語でもおなじみの「邯鄲の夢」「背水の陣」「完璧」も邯鄲とゆかりがある言葉です。

邯郸学步( hán dān xué bù )とは

中国語には邯郸学步( hán dān xué bù )という故事成語があります。

日本語だと「邯鄲の歩み」という言葉で知っている人も多いのではないでしょうか。

故事についてざっくり説明すると、中国戦国時代、趙国に邯鄲(かんたん)という都がありました。

街を行き交う人の歩く姿がとても美しいことで有名だったので、燕国からある若者がその歩き方を学びにやって来ました。

しかし、どうやっても習得することができず、挙げ句に、今まで自分がどうやって歩いていたのかもすっかり忘れてしまい、結局、地面に這いつくばりながら故郷へと帰ったという話です。

この故事の青年のように、むやみに他人を真似た結果、習得できなかったばかりか、自分本来のものまで失ってしまうということから、「邯郸学步」は自分に合わないことはやるべきではないとの教訓の話でもあります。

「邯郸学步」の詳しい内容については記事にしてありますので、ぜひ読んで見てくださいね。

邯鄲で学んだ「步」とは

「邯郸学步」の故事について知った時には、「あぁ、そんな人もいたんだなぁ、プププ……」という感じでスルーしていましたが、それからかなり時間が経ってから「そもそも歩き方って習うものなのか」とふと思いました。

モデルとかだったらまだしも、わざわざ遠くから習いに来るわけだから歩き方を習うというのはどこか違和感がありました。

そこで、いろいろと調べて見るとこの問題についての記事がたくさんあっただけでなく、中には論文まで書いて投稿している方もいました。

この記事では主に中国の記事を参考にしながら、そこで紹介されているさまざまな説を3つにまとめてみました。

よかったら中国語や漢字学習がてら暇つぶし程度に読んでみてくださいね。

説①:歩き方

「邯郸学步」を学んだ方もきっとこの「歩き方」説をそのまま受け入れているケースがほとんどではないでしょうか。

私もずっと長い間、単なる笑い話として捉えていたので気にしたこともありませんでした。

そもそもこの故事の出典は、『荘子』の「秋水篇」に出てくる公孫竜(孔子の弟子)と魏牟(ぎぼう)との対話になります。

これは日本語でもおなじみの故事成語「井の中の蛙」の中国語である「井底之蛙」の出典と同じになります。

「井底之蛙」の後半部分で「邯郸学步」のちょっとした話について書いてありますので、ぜひ読んで見てくださいね。

その対話の中で、視野の狭い公孫竜に対して魏牟が「このままでは自分が学んだことまで忘れちゃうよ」と警告する例え話として登場します。

そこから「邯郸学步」の故事で少年が学んだのは定説通り「歩き方」だったと言われるようになったのだと思います。

説②:礼儀

2016年、黒竜江省の斉斉哈爾(チチハル)の「張港」という研究員の方の『邯郸学什么步』(邯鄲で学んだ“歩”とは)という論文が『中国社会科学報』に掲載されました。

少年が邯鄲で歩き方を学んだということに関しては通説通りなのですが、その「理由」について違った角度から考察しています。

通説では少年が邯鄲の人たちの「歩き方が美しかった」という単純な理由から学ぼうとしたことになっていますが、この方の論文では、その理由について単に見栄えの良さによるものではなく、「礼儀」としての歩き方を学んだのではないかとしています。

その根拠として挙げているのが礼についてまとめた『礼記』(らいき)になります。

『礼記』とは礼に関することを周から漢代にかけての儒学者たちがまとめたものを前漢の時代に「戴聖」が編纂したものとされています(Wikipediaより)。

全49篇あり、内容は礼に関するものの他にも政治や音楽、学問について論じたものもあります。

この『邯郸学什么步』という論文では、そのうちの「曲礼篇」「玉藻篇」の内容を引用しています。

「曲礼篇」は起臥寝食について規定されていて「上」と「下」の2篇があります。

内容的には親に対する子(特に息子)の接し方、師に対する弟子の接し方などの他にも、家を訪問した際のマナーや客人との食事の際のマナーなどが一挙手一投足に至るまで事細かに定められた内容になっています。

「玉藻篇」は礼服の規定や礼儀作法について規定されていて、君子や臣下が身につける「佩玉」(はいぎょく)についても規定されています。

「佩玉」とは古代中国において君子などが腰に帯びていた玉製の装身具のことです。

古代の中国では、玉には「仁、智、義、礼、楽、忠、信、天、地、德、道」の「十一の徳」が備わっていると考えられていました。

また、「玉藻篇」には「古之君子必佩玉君子无故,玉不离身」(古代の君子は必ず玉を腰に下げ、君子は理由なく玉を体から離さない)とも書かれていて、動くたびに玉がぶつかり合うことで美しい音が鳴るだけでなく、その音によってそれらの徳を常に意識するようになるという効果もあったようです。

『邯郸学什么步』の論文によれば、臣下は出掛ける前には身なりを整えるとともに、(歩行に合わせてきれいな音が鳴るように)佩玉の音をきちんと確認してから出掛けるように決められていたようです。

また、君子が歩を早めたり普通に歩いたりする場合についても、佩玉が音楽の音色を奏でているかのようにすることなどがさまざま規定されています。

このように、道を歩くにも礼をわきまえなければならないだけでなく、佩玉も音楽が奏でているかのようにしなければならないことから、その習得にはかなりの練習が必要だっただろうとしています。

ただ、庶民についての歩き方については特に規定されていないようなので、街を歩いていた人がみな美しい歩き方をしていたかどうかは分かりませんが、「曲礼篇」であれ「玉藻篇」であれ、普段の日常生活の動作についてこれだけ細かく規定されていて、かつ、みながそれを実践していたのだとしたら、少年が邯鄲で見た人たちはどこか異世界の人たちのようで美しく見えたのかもしれません。

説③:趙国の踊り

インターネットでいろいろと調べていく内に、この「邯郸学步」の故事で少年が学んでいたのが歩き方ではなかったとする論文を書いている人を発見しました。

2006年当時、上海社会科学院歴史研究所研究員であった「楊善群」という方の論文『谈燕赵的歌舞艺术』(燕趙の歌舞芸術について)が河北省文史研究館発刊の『燕趙文化』に掲載されていたとのことです。

残念ながらその論文自体、インターネットでは見つけられなかったので全文を読むことができません。

その論文では「邯郸学步」の故事に登場する少年が学んでいたのは邯鄲の「踊りの脚の運び方、ステップ」であったとしています。

つまり、「邯郸学步」の「步」は「步行」ではなく「舞步」( wǔ bù踊りやダンスのステップ)であったとしています。

邯鄲は戦国時代は趙国の都として、また、戦国時代の趙国と燕国があった華北平原で栄えた「燕趙文化」が花開いた都市のひとつでもありました。

「慷慨悲歌、好気任侠」(世に対して悲歌をうたい怒り嘆き、また血気盛んで侠気に富む)という言葉で表現されることが多いようです。

当時の邯鄲について、司馬遷の記述によれば、「邯鄲の女性は美しいことで有名で、自らを着飾り、いつも小琴を弾き、長い袖の衣を着て、足には踊り用の軽い履き物を履いていた」としています。

また、当時の邯鄲の人々は「小琴を弾き、悲歌をうたい、闘鶏、走犬(猟犬を用いた狩り)、飲酒など」をしていたということから、当時としてはかなりエンターテインメントなどが発達していた都市だったと考えられています。

そして、当時、邯鄲には「赵舞」( zhào wǔ )「邯郸躧步」( hán dān lǐ bù )、また、「踮屣舞」( diàn xǐ wǔ )と呼ばれる踊りがありました。

これは邯鄲の女性が「无根鞋」(ヒールのない靴のこと)を履いてつま先立ちをしながら踊るものといわれています。

どういう踊り方をするのかというのかは具体的には分かりませんが、長い袖をひらめかせながらバレエのように回転する踊りであったとも言われています。

その優雅で軽快に踊る艶やかな姿は邯鄲内外の多くの人たちを引きつけたと言います。

下の画像は「【音乐通讯四】西安演艺集团歌舞剧院音乐舞蹈史诗【大秦雄魂】中的踮屣舞」というブログ記事から引用したものになります。

これは秦が中国を統一する過程を描いた『大秦雄魂』という「音楽舞踏詩史」(歴史的に重要な出来事を音楽や踊りなどで表現する演劇の一種)の一幕です。

戦国時代当時にもこういうヒールのない靴を履いてつま先立ちをしながら、華やかな衣装を身にまとった美女たちが踊っていたのだと思われます。

そしてこの趙国の女性の踊りは人気が高く、多くの人が邯鄲に学びに訪れていたとされていることから(出典は不明)、「邯郸学步」の少年もこの趙国の踊りの「舞步」を学びに来たのではないかというのが2つめの説になります。

では、なぜ少年は這って帰ることになったのでしょうか。

それは、この踊りの特徴でもある「つま先立ち」が原因なのではないかと言われています。

先ほどの記事の画像からも分かるように、つま先立ちの状態で上半身を激しく動かして体全体のバランスをとるというのは非常に難しく、足に相当の負担がかかると思われます。

それを習得するにはかなりの練習が必要であったことは間違いはなく、根性のみならず生まれ持った身体能力も必要になってくると思います。

この少年は練習をしている時に足をくじいてケガをしてしまい、それが原因で踊りの習得を断念せざるを得なくなり故郷に這って帰ったという訳です。

しかもそれで周囲の笑いものになったのであればまさに泣きっ面に蜂です。

まとめ

今回の記事では中国語の故事成語である「邯郸学步」に登場する少年が邯鄲という都市に「歩き方」を習いに行ったのではなく、「礼儀」「踊り」を学びに行ったのではないかという説を紹介しました。

結局のところ「邯郸学步」の少年がどういう目的で邯鄲に行ったのかという真実はわかりません。

ただ、習得できたとかできなかったとかという結果がどうであれ、やはり自分のやりたいことのために異国の地に挑戦しに行ったという少年の志は評価するところなのかなと思います。

社会に出て年を重ねていくにつれてやはり諦めるものの方が多くなってきます。

若い頃にはあれもできるこれもできるといろいろと手を出しては、結局はものになることはなく趣味程度のレベルで終わってしまう。

社会に出れば自由な時間がどんどんなくなっていくのもそうですが、結婚して家庭を持ったり、親の世話をしたり、病気になったりした人などからしたら経済面や健康面などなど、さまざま理由によっていろいろと諦めるものが多くなってきます(逆に得るものがあるかもしれませんが)。

それを考えた時に「今自分が何をしたいのか」「何が好きなのか」というのがとてもとても大事になってくるなと今になって思います。

それは学校や会社でどんなに嫌なことがあって怒り狂って悔しい思いをして空回りしていようが、誰にも相談できず落ち込んだりして「人生やーめた」と投げやりになっていようが

それでも「これだけはやりたい」「これだけは続けてみせる」と、自分を行動に移すことができるもののことなのかもしれません。

見方を変えれば、自分の精神的な「よりどころ」となっているもの。

それこそが自分が本当にやりたいことであり、「自分の人生にとって必要なもの」、「自分が本当に好きなもの」なのかもしれません。

自分の容姿や学歴、出身、出自、境遇、国籍、肌の色、性格、気質、そして、お金がないから、時間が足りないからなどと、自分が今やっていることについてそのどれひとつをとっても「言い訳」をしないもの。

ましてや、自分が好きでやりたいことなのに「モチベーションが上がらない・・・・・・」とか言い訳している時点で、それはもう自分が心からやりたいと思っているのではなく、単に見栄でやっているか、“頑張っている自分”に恋をしているだけなのだと思います。

本当に自分が好きでやりたいことであれば、モチベーションなんて関係ありません。

もっと言えば、自分が本当にやりたいことについては「やりたい」ではなく「俺はこれをやるんだ」という“覚悟が持てるもの”といえるのかもしれません。

そして、それに気付いた時に、もしくはそういうものを見つけた時に今までやってきたことがすべて線でつながる。

私の場合、やはり幼稚園の年長組の頃にひらがなを習う授業があって、いつも喋っていることを“へんてこな文字”で書き表すというのが当時の自分にとっては面白くもあり不思議でしようがありませんでした。

それからローマ字を習いアルファベットの存在を知ってからは、自主学習ノート(家での勉強したやつを先生に提出するノート、私の地元で俗に言う“ひとり勉強ノート”、略して“ひとべんノート”)をローマ字で埋め尽くしていました(もちろん楽だからwww)。

かなり時間が経って中学生になり英語にハマって、午後11時からのNHKの語学番組を観まくってあれこれ外国語に手をつけては中途半端に終わり、その後、不思議な縁があってついに中国語と出会ったという感じになります。

話がそれてしまいましたが、「邯郸学步」の少年が自分のやりたいことに向かって実際に行動して挑戦したというその気持ちについては、やはり馬鹿にして笑うことはできないのかなと思います。

自分自身にとっての「邯鄲」とはいったい何なのか。

自分の心の中にそれを見つけられれば、あとはその「邯鄲」で自分はどういう「步」を学んで得るのかは自然と分かってくるかと思う今日この頃です。

ただ、邯鄲(かんたん)だけに、そう簡単にはいかないと思いますし、邯郸(hán dān:はんだん)だけに、この先の人生どう判断していくかは難しいのかもしれません(もはや説得力なしwww)。

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「せいじん」さん - ネコ

「miho」さん - パンダ

chinese-mao

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