【东施效颦】なぜ「西夷光」は「西施」と呼ばれるのか

东施效颦( dōng shī xiào pín ):あらすじ

胸が痛むと苦しそうな表情を浮かべて眉をひそめる姿がとても美しかった西施という女性、それを見た東施という女性が自分も同じようにすれば美しくなれると思い真似てみた結果、かえって醜くなってしまい、村の人たちに気味悪がられたという話。

东施效颦( dōng shī xiào pín ):故事

「东施效颦」の故事は荘子によって著された『荘子・天運』が出典となっており、日本語では「西施の顰(ひそ)みに倣(なら)う」という熟語で知っている方も多いと思います。

「むやみに他人を真似た結果、かえってひどくなる」「猿まねをする」という意味になりますが、他にも「見習う気持ちであること」「(他人を真似て)下手くそである」という謙遜の気持ちを表す言葉としても使うようです。

もともとは、孔子の衛国訪問はうまくいかないだろうということに関して、「師金」という人物が孔子の弟子にその理由を語る際の例え話のひとつに登場する話です。

詳しくは以下の記事「东施效颦」にまとめてありますので、ぜひ読んでみてくださいね。

西夷光(西施)とは

その姿を見た魚が泳ぐのも忘れてしまい水底に沈んでしまったというくらいに美しく、別名「沈魚」と呼ばれるほどの美女だったと言われる西施。

楊貴妃、貂蝉、王昭君とともに中国の「四大美女」のひとりに数えられており、「西子」と呼ばれることもあります。

ちなみに、実際には魚が泳ぐのを忘れてしまって沈んだのではなくて単に驚いて逃げただけなのですが、その辺の詳しい話は「沉鱼落雁」という記事にまとめていますので、ぜひ読んでみてくださいね。

春秋時代、絶世の美女と言われていた西施は、越国の都であった諸曁(現在の浙江省紹興市にある諸曁(しょき)市)の生まれで、本名は施夷光( shī yí guāng )といいます。

父は薪を売り、母は洗濯をして稼いでたため家は貧しく、西施は幼い頃からよく母親と川辺で洗濯をしていたと言われています。

その後、川辺で洗濯していたところを見いだされて王宮へ召し出され、紀元前490年に計略のために呉王の夫差のもとへと送られることとなりました。

呉が滅んだあとは生きたまま革袋に入れられ川底に沈められたと言われています。西施の死には諸説があるようですが、ここでは割愛します。

「西施」といわれる理由

では、なぜ彼女は「西施」と言われるようになったのでしょうか。

彼女の生まれ故郷である浙江省紹興市の諸曁市には「苎萝」( zhù luó )という山があり、その麓には「苎萝村」( zhù luó cūn という村がありました。

その村は東西2つに分かれていて、また、村人たちの多くが「施」という姓でした。

西施もまた本名を「施夷光」と言ったため、そこから「西側の村に住む施」ということで「西施」と呼ぶようになったと言われています。

西側の村に住む施という人はたくさんいたわけですが、その中でも「美女のほう」を指して「西施」といったのだと考えると、「東の村に住む施」である「東施」は、外見だけ言えば残念ながら「西施に及ばないほう」だったということなのでしょう。

何ともひねりのない単純な理由から西施と言われていただけだったというのは、ちょっと残念といえば残念かもしれませんが、彼女が西施と呼ばれていた理由は以上になります。

ちなみに「苎は現在、「西施殿」という観光スポットになっているようなので興味のある方はぜひ訪れてみてください。

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「miho」さん - パンダ

「30000005717」さん - 雨空を見上げる女性(LovePik)

chinese-mao

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