【故事成語】东山再起( dōng shān zài qǐ )

东山再起( dōng shān zài qǐ ):意味

「东山再起」は、「返り咲く」「再起する」「勢力を盛り返す」「もとの地位に復帰する」という意味になります。

「东山再起」は良い意味はもちろんのこと、悪い意味でも使われることもありますが、一方、「死灰复燃」や「卷土重来」は悪い意味で用いられます。

东山再起( dōng shān zài qǐ ):あらすじ

晋の時代、東山に隠居していた謝安が40歳を過ぎて初めて出仕すると、晋王朝の危機を幾度となく救ったという話。

东山再起( dōng shān zài qǐ ):故事

320年、父親の謝裒(しゃほう)の子として陳郡陽夏県に生まれた謝安は、4歳の頃に譙郡(しょうぐん)の(かんい)から、目鼻立ちがすっきりし容貌が美しいので将来は王東海(東晋の名士である王承)にも劣らないだろうと驚かれました。

子どもながらにとても落ち着きがあり、書を書くのも得意だった謝安は、若い頃に王蒙(おうもう)のもとを訪ねて長いこと語り合った時がありました。

謝安が帰った後に王蒙の息子の王修がさきほどの客人はどのような方だったのか尋ねると、王蒙は謝安は飽きることなく勤め励む人だから、将来は他人に強い影響を与えていくだろうと答えました。

また、王導(おうどう)も彼を重んじるようになったことから、謝安は若くしてその評判を知られるようになりました。

その後、司徒府(丞相府)から「佐著作郎」(史料を収集して著作郎の国史編纂を補助する)として招聘を受けましたが辞退することにし、その後も史部郎や尚書郎などの官職を授けようとしたものの、謝安はいずれも辞退していました。

謝安は会稽の東山に隠居しながら釣りや狩りをしたり、詩歌を詠んだり文章を綴ったりして生活し、各地を遊び歩く時はいつも芸者を連れて歩いていました。

また、謝安には謝万(しゃまん)という従弟がいて西中郎将(遠征軍の指揮官)に就いていましたが、謝安のほうが名声が高かったといわれています。

謝安の妻は劉惔(りゅうたん)の妹でしたが、ある時、謝の家の者はみな高禄を食んでいる一方で、謝安が山林に隠居している姿を見て「あなたはこのように(他の家族のように)はなさらないのですか」(もしくは、(他の家族のように)富貴になるおつもりはないのですか)と尋ねると、謝安は「きっとそうなるだろう」と答えました。

そんな中、謝万(しゃまん)が前燕との戦いに敗れてしまい西中郎将の職を解かれてしまうということがあり、謝安はここでようやく仕官しようという気持ちになり始めましたが、この時すでに齢40を超えていました。

その後、征西大将軍の桓温(かんおん)の求めに応じて司馬(将軍の補佐役)となった謝安。府第に到着した謝安を桓温は喜んで出迎えると、そのままふたりはそれまでの人生を語り合いながら終日楽しみました。

東晋の第8代皇帝の簡文帝が亡くなると、桓温はこれを機に簒奪を企み、新亭(建康の南西にあった要塞)で謝安と王垣之(おうたんし)と会見することにし、ここでふたりを殺害しようと企てました。

これに怖れを抱いた王垣之はどうするべきか謝安に尋ねると、謝安は顔色一つ変えずに「晋の存亡は、この一行にあり」(晋が滅ぶかどうかは、この振る舞いで決まる)と言いました。

桓温に会うと王垣之は着ていた束帯が濡れるほどに汗をかき、手に持っていた笏(しゃく)を倒してしまうという失態を犯してしまった一方、謝安は落ち着いた様子で席に座ると桓温に言いました。

「有徳な諸侯は都の四方を守ると聞く、そなたはなぜここ(新亭)の後ろに人(兵)を置くのか」

すると桓温は笑いながら「そうせざるを得なかったのだ」と答えました。

王垣之と謝安はともに名が広く知られていましたが、この一件により謝安のほうが優れていることが知られることとなりました。

東晋の第9代皇帝の孝武帝がまだ幼かったため、代わりに桓温が補佐することになり、その後、桓温の病が重くなると朝廷は「九錫」(きゅうしゃく:皇帝から臣下に下賜される恩賞)を桓温に与えようとして袁宏(えんこう)にその詔を起草させました。

皇帝が九錫を与えるということは、それを受け取った者に禅譲するという意味にもなり得るため、これをみた謝安はすぐさま下賜の詔の草案に手を加えて桓温への下賜を引き延ばそうとしました。

それからしばらくして桓温は病死したため、九錫下賜の件は取りやめとなり、無事に禅譲を阻止することができました。

その頃、東晋の北一帯を支配していた前秦は第3代君主の苻堅(ふけん)の頃に全盛期を迎え、着実に力をつけて周辺国を滅ぼしていくと、遂には華北の統一に成功し、中国全土統一のためその矛先を東晋に向け始めました。

東晋と前秦の国境では戦が相次いで発生しては東晋は敗北を重ねていました。

謝安は従弟の謝石と甥の謝玄らに討伐を命じましたが、苻堅は100万と号する大軍を率いて南下、淮河と淝水で宿営を張ると、これに東晋の都である建康の人々は震え上がりました。

その後、「淝水の戦い」で苻堅率いる前秦軍を大敗させた東晋軍の知らせを聞いた謝安は、嬉しさのあまり敷居をまたぐ際に下駄の歯を折ってしまったとされています。この功により謝安は太保(天子の補佐役)となりました。

幾度となく東晋の危機を救ってきた謝安は北伐を計画したものの、これ以上謝安の功績が大きくなることを警戒されてしまったため、中央を追い出されて広陵の歩丘に鎮することになりました。

その後、数え年66で病死しました。

出典《晋書・謝安伝》

《晋书·谢安传》:寓居会稽,与王羲之及高阳许询、桑门支遁游处,出则渔弋山水,入则言咏属文,无处世意・・・・・・安始有仕进志,时年已四十馀矣。

今回の故事成語である「东山再起」( dōng shān zài qǐ )は、『晋書』「謝安伝」が出典になります。

ちなみに、百度百科「东山再起」など、多くのサイトでは『晋書』の「謝安伝」に「“隐居会稽东山,年逾四十复出为桓温司马,累迁中书、司徒等要职,晋室赖以转危为安。”」という一文が記載されていて、これが「東山再起」の出典となっているよう書かれていますが、そもそも先ほどの一文は「謝安伝」には記載されていないので、誤解しないように注意してくださいね。

謝安(320~385)は東晋の政治家・軍人で、40歳を過ぎて初めて仕官するまでは、会稽(現在の浙江省紹興市)にある東山で隠居生活を送りながら王羲之(おうぎし)らとの交遊を楽しんでいました。

『晋書』の「謝安伝」には、会稽での暮らしぶりについて次のように書かれています。(以下、拙訳)

寓居会稽,与王羲之及高阳许询、桑门支遁游处,出则渔弋山水,入则言咏属文,无处世意。

■会稽に寓居し、王羲之及び高陽許詢、桑門支遁と与(とも)に遊処し、出でて則ち山水を漁弋し、入りて則ち咏を言し文を属(つづ)り、処世の意無し。

■(謝安は)会稽に身を寄せ、王羲之や高陽の許詢、僧侶の支遁と交遊した、出掛ければ山川で狩りや魚釣りをしたり、家に帰れば詩歌を詠んだり文章をつづったりと、世の中に出ようという気持ちがなかった。

私からしたらなんとも羨ましい限りの生活ですが、現代のこの世の中ではスーパーお金持ちにならない限りはこういう生活はほぼ不可能に近いですね。

さて、会稽で気ままな生活をしていた謝安ですが、時代はというと「五胡十六国時代」で、ざっくり言えば、今の中国の南半分は建康(現在の南京市)を都とする東晋だったものの、北部や南西部には「五胡」といわれるチベット系やモンゴル系などの遊牧民族により建てられた複数の国家が林立して互いに興亡を繰り広げており、中国大陸は分裂状態にありました。

また、謝安には従兄の謝奕(しゃえき)と従弟の謝万(しゃまん)謝石(しゃせき)がいて、3人とも『晋書』には伝が立てられており、会稽で隠居生活を送っていた謝安とは違い、いずれも刺史(州の長官)や将軍などを務めていました。

隠居生活を送りながら名士たちと交遊していた謝安ですが、それでも従弟の謝万よりも名声があったと「謝安伝」には書かれており、仕官するまでに何度か出仕を勧められては断っていたとされています。

その後、従兄の謝奕が358年に亡くなり、安西将軍となった従弟の謝万は前燕(鮮卑系の部族が建てた国)との戦いに敗北して領土を失ってしまったことによりその職を解かれると庶民に落とされましたが、後に散騎常侍(皇帝の侍従)として復帰。

それからしばらくして、東晋の征西大将軍の桓温(かんおん)の求めに応じて、謝安はここでようやく初めて出仕することとなり、司馬(将軍の補佐役)として出仕した謝安はこの時すでに齢40を超えていました。

隠居していた「東山」からついに重い腰をあげた謝安の姿から、「东山再起」という故事成語が誕生し、「返り咲く」「再起する」「勢力を盛り返す」「もとの地位に復帰する」という意味として使われるようになりました。

その後、謝安は自分を取り立ててくれた桓温に命を奪われそうになったり、桓温への九錫の下賜を阻止したり、また、前秦による南下を「淝水の戦い」で食い止めるなどして、東晋の全盛期を支えたひとりとして活躍しました。

ちょっと深掘り

ちなみに、中国語版Wikipediaの記事であるWikipedia「謝安」(中文)によると、謝安はその死後に民間信仰の神としても崇められており、「護国広恵霊応顕済尊王」として尊ばれています。

「護国広恵霊応顕済尊王」は、「謝千歳」「謝聖王」「謝王公」「謝府王公」「謝府太傅」「護国尊王」などともいわれ、閩南語(福建省南部で話される方言)では「王公祖」と言われているとのことです。

また、唐代の大臣であった陳元光将軍が官兵を率いて漳州(現在の福建省漳州市一帯)に入る際に謝安の香火を携え、謝安を「広恵王」として尊び従っていたとされています。

この広恵王の信仰は漳州の人たちによって厦門(アモイ)や温州などの福建省各地や台湾などに広まっていき、現在も福建省や台湾の各地の廟(びょう)では謝安を主神として祭っています。

例文

反动派妄图东山再起

(反動派が再起を企んでいる)

只要接受教训,今后还会东山再起的。

(教訓を受け入れれば、今後も再起できる)

你还是有很大的机会东山再起

(君にはまだまだ返り咲くチャンスが大いにある)

只要不甘心失败,总会有东山再起的时候。

(失敗に甘んじなければ、常に再起の時はある)

他失去了东山再起的斗志。

(彼は再起する闘志を失ってしまった)

類義語

死灰复燃( sǐ huī fù rán ):死灰復燃、勢いを失っていたものや人が再び勢いを取り戻すこと

卷土重来( juǎn tǔ chóng lái ):捲土重来、一度失敗したり敗れた者が再び勢力を盛り返してやって来ること

重整旗鼓( chóng zhěng qǐ gǔ ):(敗北や失敗のあとに)陣容を立て直すこと、新規巻き返しすること

対義語

一败涂地( yī bài tú dì ):一敗地に塗(まみ)れる、取り返しがつかないほど惨敗する

一去不返( yī qù bù fù fǎn ):行ったきり戻って来ない、事が過ぎ去って二度と現れない

参照

『晋書』「謝安伝」(維基文庫)

Wikipedia「謝安」(中文)

謝安が初仕官は本当に40歳過ぎ?!

若くして才がありながら幾度となく仕官の要請を辞退しては、東山で隠居生活を送っていた謝安は、一般的には40歳を過ぎてから初めて仕官したと言われていますが、実は一度だけ「プチ仕官」していたのではないかという記述が『晋書』の「謝安伝」には記載されています。

そのことについて私の見解を踏まえながら下の記事【东山再起】謝安の初めての仕官は本当に40歳過ぎ?!にちょっとだけ詳しく解説しているので、興味のある方はあわせて読んでみてくださいね。

「東山」は2カ所ある?!

故事成語「東山再起」の「東山」については、学界内では「会稽東山説」「建康東山説」の2つがあります。

東山がどこにあるのかについてちょっとだけ詳しく解説している記事【东山再起】「東山」はどこの山?もあるので、ぜひあわせて読んでみてくださいね。

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