【东山再起】「東山」はどこの山?

东山再起( dōng shān zài qǐ ):意味

中国語の故事成語である「东山再起」( dōng shān zài qǐ )は、「返り咲く」「再起する」「勢力を盛り返す」「もとの地位に復帰する」という意味になります。

「东山再起」は良い意味はもちろんのこと、悪い意味でも使われることもありますが、一方、「死灰复燃」や「卷土重来」は悪い意味で用いられます。

东山再起( dōng shān zài qǐ ):あらすじ

晋の時代、東山に隠居していた謝安が40歳を過ぎて初めて出仕すると、晋王朝の危機を幾度となく救ったという話。

东山再起( dōng shān zài qǐ ):故事

中国語の故事成語である「东山再起」については、以下の記事东山再起( dōng shān zài qǐ )にちょっと詳しくまとめてありますので、合わせて読んでみてくださいね。

謝安と五胡十六国時代

中国語の故事成語のひとつに「东山再起」( dōng shān zài qǐ :東山再起)というものがあります。

意味は「返り咲く」「再起する」「勢力を盛り返す」「もとの地位に復帰する」となり、良くないものや勢力などが再び勢いを増してくるという意味の「死灰復燃」とは違って良い意味で使われることが多いです。

この「東山再起」という故事成語のもとになったのが、五胡十六国時代に建康(現在の江蘇省南京市)を都としていた東晋の謝安という人物になります。

三国時代に終止符を打ち、3世紀末におよそ100年ぶりに中国を統一した晋(西晋)でしたが、内乱や異民族の反乱により再び混乱が生じてしまうと、それに乗じて五胡といわれるチベット系などの遊牧騎馬民族が華北や西北地区一帯で相次いで西晋から自立・建国し、その後、西晋は都を落とされてしまったために事実上滅亡してしまいました。

それから都を建康として晋(東晋)は再び建国されることになりましたが、華北などには相変わらず五胡により建てられた国々が興亡しており、東晋は常に危機的な状況に置かれていました。

そんな時代に生きていた謝安は幼い頃から評判が高く、朝廷などから仕官を勧められていたもののすべて辞退していました。

『晋書』の「謝安伝」によると自身は釣りや狩りをしたり詩歌を詠んだりと悠々自適な生活を送り、王羲之らと交遊しながら隠居生活を送っていたとあります。

対して、謝安の従兄や従弟はさまざま官職に就いており、高禄を食んでいました。

そんな中、妻の一言や従弟が職を解かれたという出来事により、それまで仕官するつもりのなかった謝安は官途に就く気持ちがだんだんと芽生えていくことになります。この時の謝安の年齢はすでに40歳を過ぎていました。

そして、それまでの長い隠居生活に終止符を打って出仕すると、東晋を危機的状況から幾度となく救っていくことになり、やがてその生き様と活躍ぶりから「東山再起」という故事成語が誕生することになります。

「東山」は2カ所ある?!

中国語の故事成語である「東山再起」の「東山」が指す山は、『晋書』の「謝安伝」にも記載されているように、一般的には謝安が隠居生活を送っていたという会稽(現在の浙江省紹興市)にある東山であるとされています。

しかし、もうちょっと詳しく調べていくと、実は謝安と関係のある東山には会稽のものとは別の東山があるようなので、今回の記事ではもうひとつの東山について他記事を参考にしながらちょっとだけ詳しく解説していきたいと思います。

東山:浙江省紹興市

「東山再起」の故事成語にもあるように、謝安が隠居生活を送っていたのは「東山」という山になります。

『晋書』の「謝安伝」には「寓居会稽」(会稽に寓居す)と書かれており、謝安が隠居生活をしていた場所を「会稽」(かいけい)であったとしています。

会稽とは現在の浙江省紹興市一帯のことで、臥薪嘗胆という故事成語が誕生するきっかけとなった春秋時代の越国の都だった場所でもあります。

「謝安伝」には会稽の東山で隠居生活を送っていたという直接的な記述はありませんが、桓温(かんおん)の招聘に応じて会稽から建康(現在の江蘇省南京市)に赴いた際に中丞の高嵩(こうすう)が口にした冗談に謝安が暮らしていた山の名前を見て取れます。

朝廷の百官たちが謝安を出迎えた時に高嵩は冗談交じりにこう言いました。

「そなたは何度も朝廷の意に背いて東山に隠居していた、みな安石(謝安の字)はどのようにして民に顔向けできるのかと言っていたが、今となっては民がどのようにしてそなたに顔向けしていいのやら」

原文には「高卧東山、・・・・・・」(東山に高く臥し、・・・・・・)とあり、このことから会稽の東山に隠居していたことが分かります。

ちなみに、この言葉を聞いた謝安はきまりが悪そうな表情を浮かべていたとのことです。

以上のことから、故事成語の「東山再起」の「東山」は、現在の浙江省紹興市(当時は会稽)にある山を指していることになります。

東山:江蘇省南京市

「東山再起」という故事成語の「東山」は一般的には謝安が隠居生活を送っていた会稽(浙江省紹興市)にある山のことを指しますが、実は江蘇省南京市にも同じく東山があり、これも謝安と関係があります。

江蘇省南京市といえば、謝安が生きていた時代は東晋の都でもあり、当時は「建康」と呼ばれていました。

浙江省紹興市にある東山で隠居生活を送っていた謝安は征西大将軍の桓温(かんおん)の招聘に応じると、ようやくその重い腰をあげて建康にやって来ます。

建康にやって来た謝安は、それから東晋のためにいろいろと貢献していくわけですが、東山での生活が忘れられなかったのか、謝安は都の郊外に別荘を建てることにします。

謝安の別荘について、『晋書』の「謝安伝」には次のように記載されています。(以下、拙訳)

■又于土山营墅,楼馆林竹甚盛,每携中外子侄往来游集,肴馔亦屡费百金,世颇以此讥焉,而安殊不以屑意。

■また土山に於いて墅(しょ)を営み、楼館林竹甚だ盛んなり、毎(つね)に中外の子姪を携え往来遊集す、肴籑亦たしばしば百金を費やし、世頗(すこぶ)るこれを譏(そし)る、而して安殊に屑意を以(おも)わず。

■また、土山に別荘を建てると、建物は華やかで竹林が生い茂っていた、よく息子ら若い世代の人たちを別荘に招いては一緒に遊び楽しみ、酒席の料理にはよく百金を費やしていた、世間は謝安をかなり非難したが、本人はまったく気にかけることはなかった。

この別荘を建てた山はもともと「土山」と呼ばれており、これは現在の江蘇省南京市江寧区にある「東山公園」のことを指しています。

また、華北を統一して中国全土統一を目指す前秦の苻堅が百万と号する大軍を率いて南下し、まさに東晋の興亡この一戦にありという国家の命運を左右する状況に直面していた際にも、謝安はこの別荘にいたことが「謝安伝」には記載されています。

勢いに乗る前秦軍に東晋は連戦連敗を重ねてしまっていた中、謝安は従弟の謝石や甥の謝玄を討伐に派遣することにし、謝安自身も朝廷から征討大都督に任命されます。

苻堅は東晋の都である建康の近くまで攻めてくると、都にいた人たちはみな震え上がっていました。

甥の謝玄は前秦軍との戦いについて何か策があるのか謝安に聞きに行きますが、謝安は顔色ひとつ変えずに「策はすでに考えてある」とだけ答えると黙ってしまいました。

謝玄はそれ以上は何も聞こうとはせず、今度は張玄を謝安のもとに遣わして何か良い策考があるのかを聞こうとしましたが、謝安は別荘に行くように命じると、友人たちも集まり、そこで謝安と張玄は別荘を賭けて囲碁を打つことになりました。

普段は張玄のほうが謝安よりも囲碁の腕前があったにもかかわらず、この時ばかりは張玄は心が乱れていたせいか謝安の勝利に終わると、謝安は甥である羊曇に「お前に別荘をやろう」と言うと、そのまま散歩に出掛けて行きました。

夜になって帰って来た謝安は指揮官たちを呼び集めてそれぞれの任務を伝えると、その後、謝玄ら率いる東晋軍は前秦軍を見事に打ち破ることになりました。

ちなみに、ここの別荘での話だと思われるのですが、謝安は客人と囲碁を打っている最中に東晋軍が前秦軍を撃破したという知らせが書かれた紙を受け取りました。

しかし、その紙をすぐに床に投げ捨てると、表情ひとつ変えずにそのまま囲碁を打ち続けました。それを見ていた客人がどうしたのか尋ねると、謝安は謝玄らが前秦軍を打ち破ったと答えました。

謝安は東晋軍の大勝利の知らせにも表情ひとつ変えませんでしたが、やはり心の底から湧き上がる喜びが溢れ出てしまったのか、囲碁を打ち終わり自室に戻ろうとした際に下駄の歯を折ってしまいました。

謝安に関するそんな話が残されている東山の別荘ですが、資料によると民国23年(1934年)に当時の「江寧自治実験県」の県政府が東山に祠や涼亭を建てたとあり、その後は日中戦争中に破壊されてしまったそうです。

1949年までに東山に生えていた木はすべて切り倒され“禿げ山”となっていましたが、1953年からの植林活動により1977年までに本来の緑豊かな姿を取り戻して「東山林園」と名称が定められると、1983年には正式に「東山公園」の名称になりました。

こうして、現在も江蘇省南京市の江寧区には「東山公園」や「東山街道」といった謝安にちなんだものが存在しており、特に謝安の別荘があったといわれる東山(現在は東山公園)は、会稽(江蘇省紹興市)にある東山と同じく、謝安が“再び身を起こした”「東山」のひとつとされています。

まとめ

中国語の故事成語である「東山再起」の「東山」はいったいどこの山を指すのかということについてみてきましたが、いかがだったでしょうか。

実はこの東山がどこの山を指すのかということについては学界内でも意見が分かれているところでもあり、「会稽東山説」「建康東山説」の2つがあるとされています。

一般的には「東山再起」の「東山」浙江省紹興市にある山のことを指しますが、謝安が建康(江蘇省南京市)に来てから建てた別荘があった山の名前のことも指すというのはあまり知られていないのかもしれませんし、私も今回こうしてちょっと詳しく調べるまでは知りませんでした。

どちらの東山にせよ、東晋を危機的状況から幾度もなく救った謝安は両方の東山から身を起こしていたことに変わりはなく、どちらも正しいと言えば正しいのかもしれません。

ただ、「東山ブランド」を手放したくない人たちからしたら我らの東山こそが本物だというのが本音だと思いますが。

参照

「东山(浙江省绍兴市东山)」(百度百科)

「东山再起」(南京市江寧区人民政府のHP)

「绍兴东山vs南京东山,谁才是“东山再起”里那个正宗的东山?」

「东晋谢安“东山再起”的地方,就是南京江宁的东山吗?」

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