【故事成語】大器晚成( dà qì wǎn chéng )

大器晚成( dà qì wǎn chéng ):あらすじ

後漢末、文武両道の崔琰(さいえん)を兄として持つ崔林(さいりん)は、いつも周囲の人から馬鹿にされていましたが、兄の崔琰だけは弟の才能に気付いており、その後、崔林は魏の官吏となって様々な大職を任されることになったという話。

大器晚成( dà qì wǎn chéng ):故事

三国時代幕開け直前の後漢末、崔琰という人物がいました。

彼は剣術に優れており、友人との交際を好んでいましたが、中には彼のことを剣術に優れている以外に能がないという人もいました。

崔琰が学識のある人物のもとを訪れた時のこと、世話人に「主人は学問に忙しくムダ話をする暇はない」と言われました。

自身の無学を疎ましく思われたことを恥に感じた崔琰は「文武両道」を目指すことにしました。

その後、「鄭玄」に師事して学問を修めた崔琰でしたが、黄巾の乱によって学問の中断を余儀なくされました。

その後、崔琰は「袁紹」の目に止まることとなり、策士として袁紹に仕えることになりました。

200年の「官渡の戦い」に敗れてしまった袁紹亡き後は、崔琰の能力の高さを耳にしていた曹操の勧めもあり魏に帰順することになりました。

魏の国都であった鄴(ぎょう)城(現在の河北省邯鄲市)において、崔琰は多くの意見を述べたりして曹操に重用されました。

ある時、曹操は後継者として自身が寵愛する「曹植」を指名したいと崔琰に相談しました。曹植とは曹操の子である「曹丕」の弟。

それに対して崔琰は、弟である曹植を後継者にすると言うことは禍根を残すことになると忠告しました。

また、曹植の妻は崔琰の兄の娘でしたが、身内に対しても「えこひいき」をしない公正な崔琰に曹操は感服したと言います。

そんな文武両道の崔琰には「崔林」という弟がいました。

崔林は若い頃から武芸にも学芸にもこれといって秀でているというわけではなかったので、友人や親戚からはいつも馬鹿にされていました。

そんな中、崔琰だけは彼のことを重用し、周囲の人にはこう言っていました。

「才のある人物が有用な人材になるまでには時間がかかるものである。

崔林もまたしかりである。」

時代は下り、曹操が袁紹を滅ぼして冀州(きしゅう)を平定すると、弟の崔林は県令(県の長官)に任じられました。

その治政は「徳政」と言われていたことから曹操に注目されることとなり、冀州の主簿(文書を司る官吏)として抜擢されました。

その後は「別駕従事」(刺史の秘書に相当)や「僚属」(丞相の補佐官)に任命されるなどして出世していき、曹丕の治政下では幽州刺史などに任命され職務を全う。

曹叡(そうえい)の時代には「司隷校尉」(中央と地方の役人の監察官)となり、「安陽亭侯」という爵位を与えられて、238年から244年まで「司空」を務めることになりました。

その後、崔林は244年にこの世を去りました。

出典《三国志·魏志·崔琰伝》

《三国志·魏志·崔琰传》:“ 琰从弟林 ,少无名望,虽姻族犹多轻之,而琰常曰:‘此所谓大器晚成者也,终必远至。’”

今回の故事成語である「大器晚成」の故事は『三国史・魏志』「崔琰伝」に登場します。

『三国志』とは中国の三国時代について描かれた歴史書のことで、後漢末の混乱期から晋による三国統一まで記述したもので、二十四史のひとつになります。

著者は陳寿(233~297年)で、成立時期は280年以降とされています。

今回の故事である「大器晚成」には「崔琰」と「崔林」の従兄弟が登場しますが、いずれも『三国志・魏志』に伝が載っているので、それを参考にしながら2人について書いていきたいと思います。

まず、崔琰については中国哲学书电子化计划 -「三国志 – 卷12 – 崔琰传」から原文が読めますのでどうぞ。

三国志 : 魏书十二 : 崔琰传 – 中国哲学书电子化计划

崔琰传: …

崔琰(163~216年)は冀州清河郡東武城県(現在の河北省衡水市故城県)の出身で、字を李珪といい、公明正大で誠実な人柄であったとされています。

当時、漢代では23~56歳までの男子は毎年一定期間、労役に服さなければならない決まりがあり、崔琰もその決まりにより23歳の時に「正卒」(都で1年間の労役)として故郷を離れて暮らすこととなりました。

それがきっかけで崔琰は『論語』や『韓詩』を読むようになり、29歳の時には公孫方などと交友関係を築き、鄭玄に師事することとなりました。

しかし、それから1年とたたないうちに徐州の黄巾賊が北海国(現在の山東省濰坊市にあった封国)を攻め落とし、崔琰たちは不其山(現在の山東省青島市にある山)に避難しましたが、食糧が不十分だったこともあり、そのまま“退学”を余儀なくされました。

故郷へ帰ろうにも盗賊が至る所におり、また、西へ向かう道が通れなかったことから徐州や豫州などを迂回しながら故郷に帰ることとなりました。故郷に帰ってからは音楽と書を楽しみました。

その後、袁紹により召し出されて「騎都尉」(皇帝直属の部隊である“羽林騎”を監督する官職)となりました。

袁紹が曹操に敗れてからは魏に帰順することとなり、さまざまな進言を行い曹操から重用されたものの、他の官吏の讒言により曹操から自害を命じられて亡くなりました。

一方、崔琰の従弟である崔林についても『三国志・魏志』に「崔林伝」として記載されています。

三国志 : 魏书二十四 : 崔林传 – 中国哲学书电子化计划

崔林传: 崔林字德儒,清河东武城人也。 …

崔林は従兄と同じく冀州清河郡東武城県(現在の河北省衡水市故城県)の出身で、昔から優秀な崔琰と比べられては親族から軽んじられていました。

しかし、そんな中で崔琰だけは彼の才能に気付いていたとされています。

曹操が冀州を平定すると鄔(お)県(現在の山西省晋中市あたり)の県長に任じられることとなりましたが、貧しかったために徒歩で赴任したとあります。

その治政は徳政であると言われていたことから曹操により冀州の主簿(文書を司る官吏)に抜擢されました。

魏国建国後も御史中丞まで出世し、魏国初代皇帝である文帝(曹丕)の時代には幽州刺史となりました。

第2代皇帝である明帝(曹叡)の時代には司隷校尉(都およびその周辺地域の百官を監査する官吏)となると、管轄下の各郡はみな汚職官吏を罷免・追放したとあり、彼が司隷校尉を退任する際には多くの人がそれを惜しんだとあります。

讒言により曹操の不興を買い自死を賜った従兄の崔琰と違い、崔林は244年に亡くなり、その爵位は自身の息子に引き継がれることになりました。

ちょっと深掘り

2世紀後半に成立したとされている『三国志』の「崔琰伝」に「大器晩成」の言葉が登場しているということは、今から1700年以上前には既に「大器晩成」という言葉が存在していたというわけですが

では、「大器晩成」という言葉が文献に初めて出てきたのはいつ頃なのでしょうか。

時代は三国時代からずっと遡り、春秋時代(紀元前7世紀~紀元前2世紀頃)。

「老子」が著したとされる『老子』( lǎo zǐ )または『老子道德经』( lǎo zǐ dào dé jīng )に出てくる一文である「 大方无隅;大器晚成;大音希声;大象无形;道隐无名。」が初出ではないかとされています。

意味としては「大きな四角形には角がなく、大きな器は完成に時間がかかり、大きな音は聞きとることができず、大きい象には形がなく、大道は言葉では言い表せない」となります。

サイトや人によって訳し方が異なるみたいなので自分で調べて見て欲しいのですが、意味としてはだいたいこんな感じになります。

ちなみに、この『老子』には今回の記事に書いてある故事は出てきませんが、たまにどこかのサイトなどで『老子』にこの崔兄弟の話が載っているかのような書き方をしていることがあるので混同してしまわないように気をつけてくださいね。

ちなみに、「 大方无隅;大器晚成;大音希声;大象无形;道隐无名。」の部分は、中国哲学书电子化计划 -「道德经」「41」の部分に原文がありますからチェックしてみてくださいね。

ちなみに、崔林が亡くなったのは244年となっていますが、生まれた年についてはわかっていません。

そうすると、本当に彼が「大器晩成」だったのかどうか気になってしまいます。「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」という言葉もあるくらいですから、若い頃から才があったという可能性もあります。

兄の崔琰が生まれたのが163年。

そんなに年が離れているというわけではないと思うので、ここでは崔林が160年代後半の生まれだと仮定します。

曹操が冀州を平定したのは204年で、崔林が県令に任命されたのも同時期になります。

となると、崔林が生まれたのが160年代後半だとすれば、県令に任命されたのは40歳前後ということになるのではないでしょうか。

そもそも「大器晩成」というのは何歳のことを指しているのでしょうか。

40歳?50歳?それとも60歳?

気になったので調べていたところ、なるほどなと思うことを書いている方がいましたのでこちらの方にリンクを貼っておきますね。

「マツコ・有吉のかりそめ天国」大器晩成って何歳から?!

「アダルトチルドレンと催眠・潜在意識の専門家」札幌の心理カウンセラー≪らぶさん☆佐藤愛彦≫です。こんにちは。 先日の「マツコ有吉のかりそめ天国」を見ていた時のこと。 …

いろいろなサイトを調べていくと「大器晩成」で成功する年齢はまちまちでした。ただ、故事から推測するにだいたい「40歳」頃ということでしょうか。

もちろん、それまでに諦めずに努力をし続けてきたことが前提になりますが。

さて、話は変わりまして

この「崔琰」という人物の「琰」( yǎn )という字ですが、私は今回の記事を書いていて初めて知りました。

中国語を学習していてもほとんど見かけない字だと思います。

そこで、この「琰」の字について調べて見たところ、これは「玉(ぎょく)の一種」であり「人名用字」とのことでした。

「琰」の本来の意味は「美しい玉、美玉」であり、「琰圭」( yǎn guī )と言えば「割り符」の一種のことを指します。

「割り符」とは中国語では「符节」( fú jié )などとも言われていて、古代中国では朝廷の命令を伝えたり兵を動員したり、また、その他の事務を行うにあたっての「証拠」となるもののようです。

「割り符」は玉製の他にも金や銅、角、竹、木、鉛などを用いて作られていました。

「割り符」は使者に託す側と使者から受け取る側の両者がひとつずつ持っていることで、それを携帯してきた使者の「割り符」と実際に照らし合わせてみることによりそれが本物かどうかを確かめるようです。

わかりにくい説明で申し訳ないのですが

歴史の授業の時に習った「勘合貿易」(日明貿易)の「勘合符」をイメージすればわかりやすいかと思います。

その「琰圭」ですが、形は細長くて長さは「9寸」(約30㎝)で、一方の先が尖っていて、もう一方は四角いとあります。

「百闻不如一见」( bǎi wén bù rù yí jiàn )、百聞は一見にしかずと言うことで下図の中段左側の「琰」がそれになります。

http://ksbookshelf.com/DW/Kanjirin/appendix/ZuhanIchiran.html

崔琰に関する逸話

最後に、崔琰ですが、彼は「イケメン男子」だったことが中国南北朝時代の小説集である「刘义庆」( liú yì qìng:劉義慶)『世説新語』(せせつしんご《世说新语》:shì shuō xīn yǔ )に書かれています。

詳しくは以下の記事「【三国志】「崔琰」は魏のイケメン男子だった?!」にまとめてありますので、ぜひ読んでみてくださいね。

例文

伊能忠敬是大器晚成的一个典型。

他40多岁了当上课长,真是大器晚成

村上春树大器晚成,29岁才写他的第一部作品。

類義語

后生可畏( hòu shēng kě wèi ):後生恐るべし、後輩や先輩をしのぐ地下を持っている

蛍雪の功( kei se tsu no kou/けいせつのこう ):刻苦学习、刻苦攻读、苦学成功

対義語

不堪造就( bù kān zào jiù ):教えてもものになる見込みがない

冥顽不灵 ( míng wán bù líng ):頑なで無知である、頑固でものの道理がわからない

【韓国語】대기만성(大器晩成)

韓国語で「大器晩成」は「대기만성」といいます。

詳しくは以下の記事「【韓国語】대기만성(大器晩成)」にまとめてありますので、合わせてぜひ読んでみてくださいね。

本当は「大器免成」?!

大器は「完成するまでに時間がかかる」のではなく、本当は「完成なんてしない」ということらしいですが

それは一体どういうことなのかをまとめてみましたので、下の記事もぜひ読んでみてくださいね。

「蘆毓」にまつわる成語「画饼充饥」

蘆毓(ろいく)とは、崔琰らと同時代に生きていた魏の官吏で、曹操や曹丕、曹叡などに仕えた人物になります。

早くに父親や兄を亡くした彼は、兄の妻とその子どもの面倒を見ながら学問に励み、曹丕によって召し出されることとなりました。

その後、崔琰によって冀州の主簿(文書を司る官吏)として登用されることとなりました。

そんな彼は魏国の第2代皇帝である明帝(曹叡)の命令により「中書郎」に就くのに相応しい人物を選定するよう言われました。

名声ばかりの人間を嫌っていた明帝は、名声をまるで地面に描いた餅のようで役に立たないものだと吐き捨てましたが、それに対して蘆毓は反論しました。

詳しい内容は下の記事にまとめてあるのでぜひ読んでみてくださいね。

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「せいじん」さん - ネコ

「miho」さん - パンダ

「ACworks」さん - 茶碗

「あさひ晃」さん - 女子高生

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