「大器晚成」って 本当は「大器免成」?!

「大器晚成」( dà qì wǎn chéng )とは

将来的に大物になる人間はその才能が開花するのが普通の人よりも遅いという意味として四字熟語としてもおなじみの「大器晩成」

または、結果がなかなか出せていない人への励ましの言葉でもあります。

故事の詳しい内容についてはこちらの記事にまとめてありますので、下の画像をクリックしてぜひ読んで見てくださいね。

「大器免成」( dà qì miǎn chéng )とは

漢字文化を共有してきた東アジアで約2000年にわたってさまざまな書物に引用されたり、はたまた日常会話などでも用いられてきたこの「大器晩成」という故事成語。

しかし実は「大器晩成」の「晩」というのは「免」という字で、正しくは「大器免成」(たいきめんせい)ではないかという話があります。

そこで今回の記事では「大器免成」についてちょっと詳しくみていきたいと思います。

なぜ「大器免成」なのか

2000年以上にわたって信じられてきた「大器晩成」という言葉が、なぜ「大器免成」ではないかという疑いがかけられたのでしょうか。

それは今から約半世紀前の1973年12月のこと。

中国湖南省長沙市の芙蓉区から東へ4㎞ほど離れた場所にある瀏陽河の近くで、前漢初め頃の「馬王堆漢墓」という墳墓から大量の帛書(絹に書かれた書のこと)が発見されたことがきっかけでした。

その帛書というのは、今からおよそ2000年以上前の前漢初め頃の「馬王堆漢墓」という墳墓から発見されたものになります。

この墓は前漢初めの長沙国の宰相であった利蒼(りそう)とその妻子が納められていたもので、そこから発見された帛書の中には史書や医学書などが含まれていただけでなく、『易』や『老子』といった文献の写し書きも発見されました。

また、それから時代は下って1993年10月には、湖北省荊門市沙洋県の郭店村にある楚国の貴族のものとされる陵墓から「郭店楚簡」(または郭店楚墓竹簡)という竹簡群が出土しました。

竹簡(ちっかん)とは「古代中国で文字を記すために用いられていた細長い竹の札」のことになります。

秦の始皇帝の焚書坑儒を免れ、また盗掘の被害からも運良く免れた竹簡群804枚が見つかり、その中には『老子』に関する竹簡(甲乙丙の3種)も含まれていました。

ただ、この陵墓から発見された竹簡に書かれていたのは「大器晩成」でも「大器免成」でもなく、「大器曼城」大器曼成とも)でした。

「曼」には「无、没有」(無いの意)の意味もあり、また「城」も「成」の借用字であることから全体としての意味は同じになると思われます。

さて、【故事成語】「大器晩成」の記事でも触れましたが、この「大器晩成」という言葉が初めて登場するのが『老子』という書になります。

現在、市販されている『老子』(または『老子道徳経』)のほとんどすべてに「大器晩成」という言葉として書かれています(いや、全て確認したわけではないですが)。

しかし、先ほどの墳墓や陵墓から見つかった帛書や竹簡には「大器晩成」ではなく「大器免成」や「大器曼城」と書かれていたことから、これによって正しくは「大器免成」もしくは「大器曼城」なのではないかとなったわけです。

実はこの「大器晩成」という言葉については、これらの帛書や竹簡が見つかる前にも一部の学者からは「大器晩成」は間違いなのではないかという指摘があったようで、その発見により“大器晩成間違い説”が正しいのではないかという重要な根拠のひとつになったわけです。

なぜ大器晩成は間違い(?)なのか

では、なぜ「大器晩成」は間違いなのかもしれないのでしょうか。

まずはこの「大器晩成」という言葉が『老子』ではどういう文脈で出てくるのかを見てみましょう。

「 大方无隅;大器晚成;大音希声;大象无形 」

これらの詳しい解説についてはこちらのサイトを読んでみてくださいね。

「老子が「無」の先に見た「無限大」という概念」

このサイトでの訳を以下に引用します。

大方は隅なく、大器は晩成し、大音は声希かに、大象は形無し。

(大いなる方形には角がなく、大いなる器はでき上がるのがおそく、大いなる音声は聞きとれず、大いなる象には形がない。)

引用元:http://textview.jp/post/culture/4187

この日本語訳を読んでいておかしいなと思うところはありませんか。

といってもわかりにくいと思うので話を先に進めますと、「大器晚成」以外はすべて「~ない」という否定形になっているという点に気付きましたでしょうか。

対して「大器晩成」だけは不思議と肯定形となっていて、全体としてみると私のようにどこか浮いているように見えます。

では、墳墓から発見された「大器免成」の場合、どういう意味になるのでしょうか。

先ほどのサイトの直訳を引用するのであれば、「無限大の器は完成することがない」となるようです。

「大器免成」の意味とは

結局のところ「大器免成」の意味とは何なのでしょうか。

中国語のサイトでは意訳して

「大成する者は成功を要しない」

「真に大成した者は何も成し遂げていないように見える」

「大器とは天がなすものであり人の手を加える必要はない、人の手が加えられたものは、どんなに大きくても小器である」

といった感じにさまざま訳されています。

正直あまりピンとこなかったのでいろいろと調べていたところ、「 聊大郭宗林的博客 – 读帛书老子3.9|大器免成 」という記事を発見しましたので紹介していきたいと思います。

读帛书老子3.9|大器免成_聊大郭宗林_新浪博客

各个时代,虽然制造容器的质地不断变化,陶器、瓷器、青铜器、金器、玻璃器,但重要性从未改变。 追根溯源,”器”这个字,最早出现在金文中,形状是一条狗守着家里四个口状的”宝贝”。这些宝贝,就应该是陶器,瓷器,以及青铜器之类的口状容器。 如果,能算清楚价值的爱,就不是”大爱”,”大爱”是无法算清楚价值的。 …

背景知識もあまりないのできちんと理解しているわけではないのですが、ざっと自分なりに「大器免成」についてまとめていきたいと思います。

この方のブログによると、まず「器」とは「人が(人の手によって)作ったもの」という意味になり、そこには「人の手が加わっている」というニュアンスが含まれます。

例としては陶器や磁器、青銅器が挙げられますし、そこから派生して兵器や楽器、機器(中国語では機械のこと)も人の手が加えられた加工物、人工物になります。

また「器」にはものを入れる空間があることから、そこから転じて「人の器量や能力の大きさ」という「うつわ」の意味も表すようになりました。

対して「大器」とは「天が自然に成したもの」のことで、そこには「加工の痕がまったくない」ことになります。

では、「大」とは何か。

「大」とは「時間やお金で計ることができない」という意味になるとその方のブログでは言っていますが、それだとちょっと説明不足な感じがするので僭越ながら補足すると「時間的にも空間的にも捉えることができない」というニュアンスになるのかなと思います。

ざっと説明してしまったので一旦ここで整理してみますね。

「器」・・・・・・人が加工したもの、加工の痕あり

「大」・・・・・・時間的にも空間的にも把握できない

「大器」・・・・・・天が自然に成したもの、加工の痕なし

残りは後半の2文字「免成」についてです。もうちょっとがんばって見ていきましょうかね。まずは「成」のほうから。

「成」とは辞書を引くと「完成する」「成し遂げる」という意味が出てきます。その後、「成」から「成就」や「完成」に意味を押し広げました。

この方のブログによると、「成就」や「完成」はあくまでも「結果」に重点があり、そのプロセスについては見落とされているとのこと。

では、「成」は「どのようにして」完成するのでしょうか。

商代の甲骨文字(図の左上)の「成」を見てみると右側には「長柄のオノ」があり、左下に1本の縦線があり、「棒状のもの」を表しています。

引用https://kknews.cc/culture/avbpqej.html

つまり「成」というのは「オノで削る」というプロセスによって完成させるということになります。

では最後に「免」についてです。

「免」は読んで字のごとく「免除」の意味ですが、わかりやすく言うと「~しなくてすむ」「~しなくてよい」ということです。

ということは「免成」というのは「オノで加工して完成させる必要はない」ということになります。

最初にも言ったとおり、「大器」とは「天が自然になしたもの」であるので当然に人の手が加えられた痕は残っていませんが、対して「器」については人が手を加えているので痕が残ります。

「大器免成」の私なりの解釈

ということで「大器免成」は全体としてどういう意味なのか。

これは私なりの解釈であるので正しい訳ではないので注意してくださいね。

「大器免成」とは「大器は成を免ずる」

つまり、「大器は(人為的には)完成しない」という意味であると私は解釈しました。

わかりやすく言うと、「あるがまま、自然体、ありのまま」

これを自分自身にあてはめた時に、「人間は一生かかって成長する、学ぶ」と解釈する場合もあるかもしれませんが、私の解釈はそういうのとは異なります。

かといって「夢を持たず、努力も何もせず、無為に日々を送ることではない」というのはわかって頂けると思います。

ただ、なんというか、「自分の天分に従って生きる」とでも言うのか、「自分の器に従って生きる」とでも言うのか。

語彙力がないもので、ちょっとどう表現して良いのかわからないのですが、これは決して「夢を諦めろ」「お前にはムリ」とかいうネガティブなものでもないです。

そこには「成功」とか「失敗」とかいうものはなくて、なんというか「あるがまま、なすがまま」という感じです(己の語彙力よwww)

例えば、別にその道で一流とされている人間の「真似」をする必要がない。

参考にする価値はありますが、何でもかんでも自分(の価値観や境遇、能力)に合うとは限らないわけです。

それをやったからといって今自分がやっていることが順調にいくとも限らないし、そっちばかりに気を取られて自分のやりたいことが疎かになってしまっては結局のところ本末転倒になってしまいます。

なぜなら、自分に合わないことをやった時点でそれはもう「器を作ること」になるからです。

どこか不自然でぎこちない、自分らしくない、強迫観念に苛まれたストレスフルな日々を送ってしまうことになりかねません。

おそらく誰しもが心当たりはあると思うのですが、普段は上手くいかないようなこととか苦手意識を抱くものがあっても、ある特定の事柄、例えば自分の好きなこととか直感的に良いなと感じることに関しては、なぜか不思議と上手くいくことってないですか。

しかも、上手くいっても人に自慢もしなければ誇るようなこともなく、それを成し遂げたからといって別に自分に対して自信を持つようになるというわけでもない。

もちろんそれを成し遂げるまでには努力をして大変な思いはしますが、それもどこか当たり前のような感じで、どこか楽しみながらこなしていく。

だからある意味で「成功」もなければ「失敗」もない

確かに壁にぶつかって悩んだり苦しんだりすることには変わりないのですが、必要だなと感じる時に、必要な人やモノ・お金が、必要な分だけ不思議とあちらこちらからひょいっとやってくる、集まってくる

それはあたかも川の上流から下流に向かって自然と無理なく流されるような感じ。

もちろん溺れて沈まないように努力はしないといけないですけどねwww

それを考えたら、きっと見栄とか体裁のためにやっていること、もしくはやってきたことは単に「器」を作っている、もしくは作っていたに過ぎないのかもしれません。

こうすれば人に認められるんじゃないか、こうすればあいつらを見返せるんじゃないか。

もちろん今やっていることがムダであるとか、今までやって来たことすべてがムダだったとは言いません。

ただ、今までいろいろとやってきて単なるバラバラの点でしかなかったものが、人生のどこかで不思議と1本の線ですべて繋がる瞬間ってある気がします。

ただ、それらの点が線で繋がるまでが大変で、自分でもどこか不自然な生き方とか考え方になっていて、どこかぎこちなくて息苦しく生きている感じがどうしても拭いきれないですし、そういう気持ちの中で知らず知らずのうちに「器」を作ってしまっている気がします。

そして、いつの間にかあらぬ方向に考えが向かってしまったり、もしくは変な方向に努力をしてしまってムダに体力や精神力を消耗してしまっている。

今までの私がそうだったのでwww

結局、ひとりひとりの「大器」はそれぞれ違うと思いますし、それが何なのかをまだ見つけられないまま「大器」に見えた「器」を作り続けている人もいるのかもしれません。

そういう私もこうして楽しみながら(悩みながら)ブログを書いていますが、もしかしたらこれも「器」を作っているに過ぎなかったんだなと、未来の一時点で気付くのかもしれません。

もしくは、あの世に逝ってから“器を作ってたんか~い!”となるかもしれません。

私自身、別に老子のなんたるかを知っているわけでもないですし、その方面の研究者でもないので偉そうには言えないですが、「大器免成」という言葉の解釈から今の自分自身にあてはめて考えた時に何となくそういう意味なのかなと思いました。

「大器晩成」であろうが「大器免成」であろうが、地道な努力を続けることには変わりないんですけどね。

そんなこんなで「大器免成」についてちょっと詳しく見てきましたが、私も一般ピーポーな故、この記事に書かれていることが正しいとも限らないので、何事も自分で学んで、自分で調べて、自分の目で確かめて、自分の頭で考えてみてくださいね。

もし違う解釈があったらコメントなどで教えてくれたら嬉しいです。

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「せいじん」さん - ネコ

「miho.pandaさん - パンダ

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