【故事成語】草木皆兵( cǎo mù jiē bīng )

草木皆兵( cǎo mù jiē bīng ):意味

草木皆兵( cǎo mù jiē bīng )は、「草や木がみな兵士に見える」ということから、「疑心暗鬼になる」「つまらないことにびくびくする」という意味になります。

日本語でも「草木皆兵」(そうもくかいへい)という四字熟語として存在するので知っている人も多いかもしれません。

「草木皆兵」と同様の意味の故事成語に「風声鶴唳」(ふうせいかくれい)もありますが、こちらも『晋書』の同記に載っていて、「草木皆兵」のあと淝水の戦いに敗れた前秦軍が敗走する時に、恐怖のあまり風の音や鶴の鳴き声を東晋軍が追ってきたと勘違いしたという話から来ています。

「風声鶴唳」の故事は『晋書』の「謝玄伝」にも同様の記述があり、一般的に風声鶴唳の出典は「苻堅戴記」ではなく「謝玄伝」になっているようです。

草木皆兵( cǎo mù jiē bīng ):あらすじ

城下に迫った敵の大軍を目の当たりにした前秦の苻堅が、恐怖のあまり山に生えている草木までもが人の形に見えたという話。

草木皆兵( cǎo mù jiē bīng ):故事

東井(二十八宿のひとつ、ふたご座)の空には彗星が流れ、建元17年(381年)4月からは長安で水影(逃げ水)が現れるようになり、遠くから見ると水のよう見えるものの、近くまで行くと消えてなくなってしまい、苻堅はこれを気味悪がりました。

すると、東晋の車騎将軍である桓沖(かんちゅう)が10万の兵を率いて苻堅討伐の兵を起こし襄陽を攻めると、続けて前将軍の劉波、冠軍将軍の桓石虔(かんせきけん)らは沔北の諸城を攻撃し、輔国将軍の楊亮は蜀を攻めて伍城を落とし、涪城に攻め込みました。

龍驤将軍の胡彬は下蔡を攻めると、鷹揚将軍の郭銓(かくせん)は武当を攻め、桓沖の他の将は万歳城を攻めて、これを陥落させました。

苻堅はこれに大いに怒り、子の苻睿(ふえい)と冠軍将軍の慕容垂(ぼようすい)、左衛将軍の毛当に歩兵・騎兵5万をあずけて襄陽救援に向かわせると、張崇(ちょうすう)には武当、後将軍の張蚝(ちょうこう)と歩兵校尉の姚萇には涪城の救援に向かわせると、苻睿と慕容垂はそれぞれ新野、鄭城に宿営を張りました。

その後、東晋軍は武当で張崇を打ち破ると、2000余戸を略奪し帰還していきました。

苻睿は慕容垂と驍騎将軍の石越を先鋒として派遣させると沔水に陣を張りました。

慕容垂と石越は夜になると、三軍の兵に松明を持たせて木の枝にくくりつけさせると、松明の光の長さは10数里に及び、これに怖れをなした桓沖は上明まで軍を退かせました。張蚝が斜谷を出ると、楊亮も撤退しました。

苻堅は公私の馬を徴集し、十丁につきひとりの兵を派遣するよう諸州に命じると、家柄が灼然(士族のこと)の者は崇文義従となり、良家(農業に従事する家庭)の20歳以下の者、勇猛で資産のある者は羽林郎となりました。

一方、東晋では皇帝は尚書左僕、謝安は吏部尚書、桓沖は侍中となりました。

苻融および驃騎将軍の張蚝、撫軍将軍の苻方、衛将軍の梁成、平南将軍の慕容暐(ぼようい)、冠軍の慕容垂が率いる歩兵・騎兵総勢25万を先鋒とした苻堅は、自らも約60万の兵と27万の騎兵を率いて長安を出発、その長さは前後あわせて千里となりました。

苻堅が項城に到着すると、涼州の兵は咸陽に到着しだし、蜀漢の軍は河を下っていき、幽州と冀州の者たちは彭城に到着、東西千里にまたがった軍勢は水と陸の両方か南下・進撃すると、万艘が汝(汝河)、潁口(潁河と淮河の合流点)に到着しました。

苻融は寿春を攻撃して東晋の征虜将軍の徐元喜、安豊太守の王先を捕らえると、慕容垂は鄖城を攻撃して東晋の将軍である王太丘を討ち取りました。

梁成と揚州刺史の王顕、弋陽太守の王咏らは5万の兵を率いて洛澗に駐留。

梁成が東晋軍を打ち破ると、東晋は都督の謝石、徐州刺史の謝玄、豫州刺史の桓伊、輔国将軍の謝琰ら水陸7万の兵を派遣して苻融らの進撃を防ごうとしましたが、洛澗まで25里のところまで進むと、梁成の勢いに憚ってしまいそれ以上は進軍しませんでした。

龍驤将軍の胡彬は硖石を守っていましたが、苻融に攻められると兵糧が尽きてしまいました。そこで、密かに使者を送り「賊は勢いが盛んだが我が軍に兵糧がない、これでは大軍とは思われないだろう」と報告しようとしました。

しかし、苻融軍はこの使者を捕らえると、苻融は苻堅のもとに行き、「敵は少なく、これを捕らえるには容易ですが、逃げてしまう恐れがあります。速やかに軍を前進させて敵軍を生け捕りにすべきかと」と進言しました。

苻堅はこれを聞いて大いに喜ぶと、謝石たちが逃げてしまうことを恐れ、大軍を項城に残して自ら8000の軽騎兵を率いて寿春に向かいました。

兵士たちには「我らが寿春に至ると口外した者は舌を抜く」と命令したため、謝石らは苻堅軍がこちらに向かっていることを知りませんでした。

すると、東晋の龍驤将軍の劉牢之は5000の精兵を率いて梁成の砦に夜襲を仕掛けると、これを打ち破り、梁成や王顕、王咏ら10の将軍と兵1万5000を討ち取りました。これにより謝石らは水陸の両方から再び軍を前進させました。

苻堅と苻融は寿春の城壁に登って城下に迫りつつあった東晋軍を眺めました。

整然とした陣形と精鋭な将兵たちの姿を目の当たりにし、北に臨む八公山の草木がみな人の形に見えてしまうほどでした。

苻堅は振り返ると苻融に「これも強敵ではないか、なぜ少ないと言ったのか」と言うと、憮然として恐れた様子でした。

苻堅が東晋に攻め込んできたという知らせを朝廷が聞くと、会稽王道子(司馬道子?)は「鐘山の神」に祈祷しました。

苻堅が草木を人のようだと言ったことから、ひょっとするとそのおかげがあったのかもしれません。

出典《晋書・苻堅載記》

《晋书·苻坚载记》:坚与苻融登城而望王师,见部阵齐整,将士精锐,又北望八公山上草木,皆类人形,顾谓融曰:“此亦勍敌也,何谓少乎!”怃然有惧色。

今回の故事成語である「草木皆兵」( cǎo mù jiē bīng )は、『晋書』「苻堅戴記」が出典になっていますが、「苻堅戴記」は上下の2つあり、今回の出典は下の方になります。

三国時代が終焉を迎えて3世紀末に中国大陸が晋(西晋)によってようやく統一されましたが、それも長くは続かず八王の乱などにより国内が再び乱れ始めると、現在の中国大陸の華北や東北、西北地区では五胡といわれる遊牧騎馬民族が各地で自立・建国しはじめ、いわゆる五胡十六国時代が幕を開けることになりました。

それぞれの国は各地で互いに抗争を繰り広げては領土を奪い合い、再び戦乱の世に戻りつつあった中で西晋が滅ぼされると、4世紀初め頃に建康(現在の江蘇省南京市)に都したことにより晋は再興を果たし、東晋としてなんとか存続することになりました。

しかし、各地で興亡を繰り広げていた国々も、やがては前秦によって統一されていくことになり、376年に前秦の苻堅は華北を統一すると、念願だった中国統一に向けて動き出そうとしていました。

臣下の再三の反対にもかかわらず苻堅はついに東晋征伐の兵を起こすことになり、それが今回の故事の部分になります。

苻堅は百万と号する大軍を率いて東晋の都である建康に向けて出発すると、自身は項城(現在の河南省周口市項城市)まで進軍、先鋒軍約25万人を寿春(現在の安徽省淮南市寿県)まで進軍させました。

東晋軍の胡彬率いる軍は淮河(淮水)を渡り硖石まで進軍していましたが、兵糧も尽きてしまい劣勢に立たされたために使者を密かに送って救援を求めようとしましたが、その使者が前秦軍によって捕らえられてしまいました。

東晋軍の兵力が少なく、また兵糧が底を尽いて苦境に立たされていることを知った苻融は、この件をすぐに苻堅に知らせると、それを聞いて喜んだ苻堅は自ら軽騎兵8000を率いて寿春に向かいました。

しかし、寿春の東側に進軍していた前秦の梁成軍が東晋軍の夜襲を受けてしまい敗走すると、東晋軍はその勢いに乗じて寿春まで軍を進めました。

寿春に到着した苻堅は寿春の城壁の上から整然と並ぶ東晋軍の精兵を目の当たりにすると、それまでの威勢はどこへ行ったのやら、驚きのあまり北に見える八公山の草木までもが東晋の兵たちに見えてしまうほど恐れた様子だったと言われています。

その後、淝水を挟んで対峙した両軍は「淝水の戦い」で戦闘を繰り広げると、数的に圧倒的に有利だった前秦軍は大敗を喫してしまうことになり、これにより前秦の支配体制は大きく揺らぐことになり、前秦滅亡の遠因となってしまいました。

このことから、恐怖のあまりなんでもないようなことに対してびくびくしてしまう事や疑心暗鬼になる様を「草木皆兵」と言うようになりました。

ちょっと深掘り

城壁から東晋軍の精兵を目の当たりにした苻堅は、恐怖のあまり八公山に生えている草木までもが東晋の兵士たちに見えたということですが、この「八公山」は現在の安徽省淮南市の寿県にある「八公山風景区」または「八公山森林公園」のことになります。

同風景区は安徽省中部にある淮南市の寿県に位置し、大小約40の峰からなる山で、一番高い峰は海抜241.2mになります。

八公山はかつては「北山」「淝陵」「楚山」「紫金山」「寿春山」「八仙山」などと呼ばれていました。

早くには淮河流域に「淮夷部族」が暮らしていて、周代には「州来」という諸侯国が建てられて、その都は八公山の麓にあったと言われています(春秋時代中頃に楚国により滅亡)。

「八公山」という名前は前漢の淮南王だった劉安が仙人になった話が由来になっています。

前漢時代、八公山は淮南国に属していて、前漢の厲王の子だった劉安は淮南王に封じられると、全国から3000人以上の門客を呼び集め、八公山でさまざまな書を著しながら天体現象の研究や編暦の業務、煉丹(仙薬を作ること)を行ったりしていました。

その中でも劉安が最も気に入っていたのが、「左呉」「李尚」「蘇飛」「田由」「毛被」「雷被」「伍被」「晋昌」の8名で、彼らは「八公」と呼ばれていました。

言い伝えによると、劉安は彼ら八公とともに八公山で仙人となって昇仙したため、その山を八公と名付けたとされていますが、その話は北宋の楽史による『太平寰宇記』(たいへいかんうき)「淮南道七・寿州」に記載されています。

『太平寰宇記』によると、仙人になった劉安と八公たちの他にも、器に残っていた“仙薬”を舐めた鳥と犬も一緒に天に昇っていったとされており、ここから「一人得道、鶏犬昇天」という言葉が誕生することになり、これは「ひとりが権勢を得ると、その親族や縁者なども出世する、恩恵を受ける」という意味になります。

この八公山風景区(八公山森林公園)には、戦国時代後期の趙国の名将である廉頗(れんぱ)の墓地もあります。

また、今回の故事の最後の方に、会稽王の道子(恐らく司馬道子のこと)が「鐘山の神」に祈祷したとありますが。この「鐘山の神」とはいったい何なのかについてちょっと詳しくみていきたいと思います。

「鐘山」とは中国の伝説の山になります。

戦国時代から漢代にかけて書かれた中国の地理誌(地誌)である『山海経』(せんがいきょう)「海外北経」によると、その麓には「鐘山の神」が住んでいたと書かれています。

この「鐘山の神」は「燭陰」「燭竜」「燭九陰」とも言われ、人面蛇身で赤色をしており、無啓国の東にいたと言われています。

目を開けると昼になり、目を閉じると夜になり、口から息を吐くと冬になり、鼻から息を吐くと夏になり(“呼べば”夏になるとも)、食べも飲みもせず、また息もせず、ひとたび息をすればたちまち風となり、その体長は千里にもなるとされています。

また『山海経』の「大荒北経」には、赤水の北にある章尾山には「燭九陰」「燭竜」がいると書かれています。

例文

有些人对西药草木皆兵

(西洋医学の薬に疑心暗鬼になっている人もいる)

類義語

风声鹤唳( fēng shēng hè lì ):噂に怖じける、怖じ気だって少しのことにも驚く

杯弓蛇影( bēi gōng shé yǐng ):杯中の蛇影(だえい)、疑心暗鬼に陥る

対義語

若无其事( ruò wú qí shì ):何事も無かったようである、平気である、平然としている

稳如泰山( wěn rú tài shān ):泰山のごとく安定している

参照

『晋書』「苻堅戴記」(維基文庫)

「八公山風景区」(百度百科)

「钟山之神」(百度百科)

「钟山」(百度百科)

『山海経』「海北北経」(維基文庫)

『山海経』「大荒北経」(維基文庫)

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