【故事成語】伯乐相马( bó lè xiàng mǎ )

目次
伯乐相马( bó lè xiàng mǎ ):あらすじ


楚王から駿馬を買い付けてくるように依頼された孫陽が、痩せこけた馬を良馬だと見抜いたという話。
伯乐相马( bó lè xiàng mǎ ):故事
良馬を見抜くことを得意としていた孫陽は、ある時、楚王から一日に千里を駆ける駿馬(足の速い優れた馬)を買い付けてくるように依頼され、必ず探し出すことを約して各地を巡ることになりました。
孫陽は何カ国も渡り歩き、かねてから良馬の産地として有名だった燕趙一帯(現在の河北省あたり)を探し訪ねたものの、気に入った駿馬を見つけることができませんでした。
すると斉国からの帰り道、孫陽は塩を載せた車を牽きながらなんとか踏ん張って坂道を進む一頭の馬を見かけました。
その馬はぜいぜいと息切れしていて、一歩前に踏み出すのも困難な有様でした。
いつも馬に優しく接するようにしている孫陽は、その馬まで近づいていくと、孫陽を見たその馬は突然、頭をもたげて目を大きく見開くと、声高く鳴き出しました。
それはまるで、孫陽に何かを訴えかけているようでした。
孫陽はその鳴き声からすぐに駿馬であると確信すると、その馬の持ち主に言いました。
「戦場を駆ければ、この馬にかなうものはいない。しかし、車を牽くのに用いては普通の馬にも及ばなくなってしまう。私に売ってくれませんか。」
馬の持ち主は、この馬は車を牽くにも気力がなく、餌はたくさん食べるのに体は細木のようだと言うと、迷うことなく馬を売ることにしました。
その後、孫陽はその馬を楚国へと連れて帰りました。
王宮まで来ると、孫陽は馬の首を軽く叩きながら「これで良い主人が見つかったぞ」と言いました。
その“千里馬”は孫陽の言ったことを理解したかのように、前脚を挙げて地面を前掻きすると嘶(いなな)きました。
馬の嘶く声を聞いた楚王は王宮の外に出ると、孫陽は馬を指さしながら「“千里馬”を買い付けてきました、よくご覧になってください。」と言いました。
楚王は馬のあまりにも痩せ細った姿に、孫陽が自分を愚弄しているのだと感じ、いささか気分を害してしまいました。
「そなたを馬の善し悪しを見極められるものと信じていたが、これは何だね、歩くのさえままならないではないか、これで戦場に出られるのか」
すると孫陽は答えました。
「これは確かに“千里馬”でございます。しかし、車を牽き、きちんとした餌を与えられていなかったので痩せてみえるのです。丹念に餌を与えれば半月と経たずに体力は回復するでしょう。」
それを聞いた楚王は半信半疑でしたが、“馬夫”にしっかりと管理するように命令すると、案の定、馬はみるみるうちにたくましくなっていきました。
楚王は馬にまたがり鞭を振るうと、風を切りながら“一息入れる間”に百里を駆けました。
その後、その“千里馬”は楚王とともに戦場を駆け巡り、多くの功を打ち立てることとなりました。
これにより、楚王は孫陽に対してさらに敬意を持つようになりました。
伯乐相马( bó lè xiàng mǎ ):意味
「伯乐相马」は、「馬の優劣を見極められる人」から転じて、現在では「人材の発掘や登用などをする人」という意味で使われています。
出典《韓詩外伝》
《韩诗外传》:使骥不得伯乐,安得千里之足。

今回の故事成語である「伯乐相马」の故事については、残念ながら出典は不明です。
この「伯乐相马」という故事のもとになったと思われるのが、前漢の韓嬰(韩婴:hán yīng )による著である『韓詩外伝』(韩诗外传・卷七:hán shī wài zhuàn )となっているようです。
『韓詩外伝』は外伝の他にも内伝(内传:nèi zhuàn )もあったとされていますが、現存はせず、一説によれば内伝は外伝に組み込まれたとされています。
この『韓詩外伝』は道徳的な教えなどを中心に360の逸話などが載っており、それぞれの話の最後には「《詩》曰:」として、この話と関係していそうな部分を『詩経』からの引用を用いて話をまとめています。
ちなみに、孫陽の話が出てくる話の最後は「《诗》曰:“鹤鸣九皋,声闻于天。”」となっています。
『韓詩外伝・巻七』の中に「 使骥不得伯乐,安得千里之足。」という一文が出てきますが、これは意訳すると、「もし(その)馬が伯楽によって見つけられなかったら、千里馬になれたわけがない」という意味になります。
この『韓詩外伝・巻七』の「 使骥不得伯乐,安得千里之足。」が出てくる話は、もともと孔子とその弟子たちが楚国に向かう途中で、それを阻止しようとした陳国と蔡国によって足止めをくらい、7日間もまともな食事をとれずに死に瀕していた時の孔子の発言から来ています。
自信がないですが、ざっとかいつまんで説明すると、陳国と蔡国によって7日間もまともに食事ができず、弟子の中には体調を崩したりする人がでているにもかかわらず、孔子が相変わらず勉学に励んでいるのをみた弟子のひとりである「子路」が孔子に対してこう質問します。(以下、拙訳)
「天は善には福を以て報い、不善には禍を以て報いるとある。あなたは徳を積まれ善を為して久しい。ひょっとしてまだ品徳に欠けている所があるのではないか。なぜ今こんな目に遭っているのか」
それに対して孔子は歴史上の様々な人物の例えを出しながら「贤不肖者材也。遇者时也。」(賢不肖は材なり。遇とは時なり)と反論しました。
つまり、「賢いかどうかはその人の能力によるし、物事がうまくいくかどうかは時が巡ってくるかどうかによる」という意味になると思われます。
また、その後も孔子は様々な人物の例えを出しながら反論していきますが、その話のひとつに今回の故事成語の「伯乐相马」の故事に出てくる千里馬と孫陽が登場してきます。
そのうちの一文が「使骥不得伯乐,安得千里之足。」(もし(その)馬が伯楽によって見つけられなかったら、千里馬になれたわけがない)となります。
ちょっと深掘り
孔子の発言の中に出てくる千里馬と孫陽の話についてですが、『韓詩外伝』には次のように書かれています。(以下、拙訳)
「夫骥罢盐车,此非无形容也,莫知之也。使骥不得伯乐,安得千里之足?造父亦无千里之手矣。」
(その駿馬は塩車を牽くことに疲れていた、この過ちは形容するなかれ、これを知るものはいないだろう。駿馬が伯楽と出会わなければ、どうして千里馬になれただろうか。“造父”も[時代があわなければ]その才能を発揮できなかっただろう)
意訳で申し訳ありませんが、意味としてはこんな感じになります。
「造父亦无千里之手矣。」(“造父”も[時代があわなければ]その才能を発揮できなかっただろう)に関しては完全に私の都合の良いように訳しているので、書き下し文や現代語訳を知っている方がいたら教えていただけるとありがたいです。
ちなみに、「造父」とは周王朝の穆公(ぼくこう:在位紀元前976~紀元前932年)と同時代の人で、伯楽が生きていた頃よりも約300年前の人物になります。
「駕馬大夫」だった造父は、孫陽と同じで馬の素養を見極めるのが得意だったとされ、天下の名馬を引き取って飼育し、狩りが得意だったとされています。
また、穆公が都を留守にしている時に徐偃王(じょえんおう)が謀反を起こした際にも、8頭の“千里馬”で穆公を神速の早さで都に連れ帰り、その話を聞いた反乱軍の兵士たちは一夜にしてその半数が逃亡してしまい、徐偃王は敗れてしまったという伝説もあります。
この『韓詩外伝』は、話の最後に『詩経』の一部を引用してその話をまとめていると書きましたが、この千里馬と孫陽の例え話が出てきた孔子と子路の話は「《诗》曰:“鹤鸣九皋,声闻于天。”」という言葉でまとめられています。
意訳になりますが、「鹤鸣九皋,声闻于天。」は、「鶴(丹頂鶴)が九皋山で鳴けば、(その声は)天に響き渡る」とでもなるのでしょうか。
これは、『詩経・小雅』の「鶴鳴」という周代に作られた詩の一部で、山野に隠居している優秀な人材を周王朝がもっと登用するべきであることを遠回しに諭している詩であるとしている学者もいます。
ちなみに、「九皋」とは、河南省洛陽市にある「九皋山」(きゅうこうさん:鳴皋山とも)のことを指しています。
例文
秋元康是日本偶像界的伯乐相马吗?
類義語
伯乐选马( bó lè xuǎn mǎ ):
対義語
勉強中・・・
【按图索骥】伯楽(孫陽)の息子の話
そんな優秀な孫陽ですが、彼は馬を見極めるための自身の経験などを『相马经』( xiàng mǎ jīng )という一冊の書物にまとめました。
現在、この原本は逸失しているので実物をみることはできないのですが、1973年12月に湖南省長沙市の「長沙馬王堆漢墓」から帛書(文字が書かれた絹布)や竹簡(文字が書かれた細長い竹の札)などの文献資料が出土し
その帛書のひとつに『相馬経』の写し書きが含まれていたことから、『相馬経』が実在したという有力な証拠となりました。
実物は湖南省博物館のこちらのページから見れますのでどうぞ。
この帛書には77行、約5200字が残されており、そのうちの500字は保存状態が悪く、また現代の書と照合できないため、一部内容については理解することができません。
また、同漢墓から出土した『相馬経』の写し書きは「経」「伝」「故訓」の3つに分かれており、主な内容は馬の頭部や馬の見分け方についての理論となっていて、全文は隷書体で書かれています。
そんな『相馬経』を書いた伯楽こと孫陽には息子がいたのですが、ある日、その息子は『相馬経』を片手に良馬を探しに出掛けることにしました。
しかし、彼が連れて帰ってきたのは一匹のヒキガエルでした。
詳しい内容については『按图索骥』にまとめていますので、ぜひ読んでみてくださいね。
伯楽が千里馬を見つけた坂
伯楽が駿馬を見つけたのは現在の山西省にある塩道(塩を運ぶための道)だったと言われており、「全国重点文物保護単位」にも指定されています。
詳しい内容については下の記事【按图索骥/伯乐相马】伯楽が千里馬を見つけた坂にまとめていますので、よかったら合わせて読んで見てくださいね。
参照
イラストレーターの皆さん
この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。
・「せいじん」さん - ネコ
・「miho」さん - パンダ
・「わっきー」さん - 坂本龍馬
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