【按图索骥/伯乐相马】伯楽が千里馬を見つけた坂

【故事成語】按图索骥( àn tú suǒ jì)

春秋戦国時代の秦国の第9代君主である穆公(在位期間:紀元前659~紀元前621年)と同時代の人とされる「孫陽」という人物は、馬の素養を見極めることに長けていたことから、天上で馬を司っているという神になぞらえて「伯楽」(はくらく)とも呼ばれていました。

孫陽は自身の馬の見極め方を体系的に記述した『相馬伝』を著しました。

『相馬伝』を読んで馬の見極め方を学んだ彼の息子はある日、良馬を探しに出掛けることにしましたが、連れて帰ってきたのは馬ではなく、なんと一匹の大きなヒキガエルでした。

それを見た孫陽は呆れて笑ってしまったという故事から、中国では「按图索骥」( àn tú suǒ jì)という故事成語が誕生しました。

意味は「手がかりをもとにものを探す」や、そこから転じて「ものごとを機械的に行うこと」「融通が利かないこと」になります。

ちょっと深掘りしている内容については下の記事「按图索骥」にまとめてありますので、ぜひ読んで見てくださいね。

【故事成語】伯乐相马( bó lè xiàng mǎ )

馬の善し悪しを見極めることが得意なことで有名だった孫陽ですが、ある時、楚王から駿馬(足の速い優れた馬)を買い付けてくるように依頼されました。

孫陽は各国を渡り歩いて探し求めましたが結局は見つかりませんでした。すると、斉国からの帰り道、塩を載せた車を牽きながら坂を登る痩せ細った一頭の馬を見かけました。

その馬は孫陽を見るなり嘶(いなな)くと、その鳴き声を聞いた孫陽は一瞬にしてその馬が駿馬であることを見抜きました。

その痩せ細った馬を買い取って楚国に連れて帰ると、初めは楚王は半信半疑でしたが、きちんと世話をされると馬はみるみるたくましくなっていき、その後、楚王とともに戦場を駆け巡りながら多くの功を立てることになりました。

この故事がもとになってできたのが「伯乐相马」( bó lè xiàng mǎ )という故事成語になり、現在は「人材の発掘や登用などをする人」という意味で用いられています。

また、「伯楽」というと「人材の発掘や登用などに長けた人」という意味になりますが、AKB48を初めとする国内外の48グループや乃木坂46などの坂道シリーズをプロデュースする秋元康氏をイメージすると分かりやすいかもしれません。

詳しい内容については下の記事「伯乐相马」にまとめてありますので、ぜひ読んでみてくださいね。

伯楽(孫陽)とは

馬の善し悪しを見極められることで有名だったこの孫陽(およそ紀元前680~紀元前610年)ですが、別名を「伯楽」ともいい、郜国(現在の山東省菏沢市成武県)の出身になります。

春秋時代の秦国の穆公(ぼくこう)と同時代の人物と考えられていて、秦国の富国強兵に貢献し、その後は馬に関する自身の経験をまとめた『相馬伝』『伯楽相馬伝』とも)を著しました。

ちなみに、「伯楽」とはもともと星の名前(うみへび座のα星など)を指しており、天上で馬を司る神であるという言い伝えがありますが、そこから馬の素養を見極められる孫陽のことをみなが「伯楽」と呼ぶようになったことから、いつの間にか本名の孫陽よりも伯楽という呼び方で言われるようになりました。

ですので、以下、孫陽のことを伯楽と呼んでいきたいと思います。

馬の素養を見極めることに長けていた伯楽は秦国の富国強兵にも貢献し、またか各国でも馬に対するさまざまな貢献をした伯楽ですが、紀元前610年に亡くなると故郷に葬られたとされています。

現在の山東省菏沢市成武県の伯楽集鎮にある伯楽集村には、明代に修復された「伯楽塚」があり、1970年代には墓から「孫陽」と書かれた「残碑」(壊れた石碑のこと)が発見されています。

地理や人文について宋代に書かれた『太平寰宇記』(たいへいかんうき:太平寰宇志とも)の「済陰県」には、「伯楽冢,秦人善相馬者,葬于此」と記されているとされ

現在の伯楽集村はこの済陰県の管轄下にあったと考えられるため、同書のいう「伯楽冢」は伯楽集村にある「伯楽塚」のことを指していると考えられています。

また、伯楽集村には孫姓が多いことから、孫陽を始祖としているとのことです。

故事に登場する坂道

中国語の故事成語である「伯乐相马」( bó lè xiàng mǎ )に登場する伯楽が、塩車を牽く馬を見かけたのは斉国からの帰り道にあった坂道だったと言われていますが、具体的にどこの坂だったのかについては言及されていません。

しかし、色々と調べていくと、伯楽が駿馬を探しに行くという話には大きく2種類あることがわかりました。

ひとつは「楚王から依頼される話」になり、「伯乐相马」( bó lè xiàng mǎ )の記事で書いた故事もこのバージョンになります。

楚王から依頼される話では、各地を巡ったあとに斉国からの帰る途中にある坂道で塩車を牽く馬を駿馬だと見抜き、それを楚国に連れて帰ったという話になります。

この場合、坂道の具体的な名前については出てきません。

そしてもうひとつは、「虞公(虞国の君主)から依頼される話」というものがあり、これは山西省運城市の平陸県政府のホームページに記載されているものになります。

これは、周代(春秋時代)の虞国の君主である虞公に依頼された伯楽が、虞国にある「虞坂」で道を行き交う荷を運ぶ馬の中から駿馬を見つけ出したという話になります。


伯乐相马( bó lè xiàng mǎ )の故事では楚王から依頼を受けて斉国まで探しに行ったものの結局は見つからず、その帰り道で千里馬を見つけたと言うことだったので、斉国と楚国も合わせて図に示してみました。

こうしてみてみると、斉国から楚国までかなりの道のりがありますね。

春秋時代は表向きは周王朝の権威を尊重しつつも、実質的には弱肉強食という言葉の通り、強国が弱国の領土を力尽くで奪い、各国がしのぎを削っていた時代でした。

そんな中、晋国の南側に位置していた「虞」と「虢」(かく)という小国は互いに助け合いながら、この乱世でなんとか生き残っていました。

絵心がなくて申し訳ないですが、当時の晋国と虞国、虢国などの位置を拡大したものを下の図に表してみました。

当時の虞国は真ん中の細長い「中条山脈」のあたりに位置しており、虢はその南端(現在の河南省三門峡市一帯)に位置していました。

そして、伯楽が駿馬を見つけることとなった虞坂は、虞国の領土内である図の矢印が指し示す場所にありました。

この虞坂の途中には「古鎖陽関」というところがあり、当時は晋国と虞坂の国境となっていました。

ちなみに、『兵法三十六計』「仮道伐虢」(かどうばつかく)で晋が虢を討つために虞の道を借りて通ったわけですが、まさにこの虞坂を通って虢を攻めたと言うことになります。

それでは、次にその「虞坂」についてちょっと詳しく解説していきたいと思います。

虞坂(虞坂古塩道)

「虞坂」とは、今から約3000年前の周代初めに切り開かれたとされており、現在の山西省南西部にある運城市に位置しています。

周代(春秋時代)の諸侯国である「虞国」の領土内にあったために「虞坂」と呼ばれており、「塩道」「虞坂古道」「虞坂古塩道」などとも言われ、清代の『平陸県志』など古くから多くの書物にその名前が登場するとされています。

虞坂は同市の塩湖区東郭鎮磨河村平陸県張店鎮坪頭鋪村をつなぐ全長約8㎞、道幅約2~4mの山道になり、その曲がりくねった険しい山道を古代の人たちは「河東塩池」から採れた「河東塩」を中原や西北地方などに運ぶための道として利用していました。

道は非常に険しく、荷車は通りづらかったことから、明代の正徳8年(1513年)に河東巡塩御史「張士隆」が坂を修復したことで道幅は広くなり勾配も緩やかになりました。

1956年には新しい道路ができたために正式に廃路なってしまい、その後は草木が生い茂るほどに放置されていましたが、1980年代になって再び発見されると、平陸県文化館の職員によって調査が行われ、全長8㎞であることが判明しました。

その後、2004年には「塩池禁牆」とともに「第四次山西省文物保護単位」に指定されると、2005年に路面を修復。2013年には虞坂古塩道は単独で「第七次全国重点文物保護単位」に指定されました。

絵心のない私の絵だけでは申し訳ないので、Googleマップから見てみましょう。

画像と文字がずれているので見えづらいとは思いますが、中央の山を挟んで左斜め上に「磨河村」、山の右斜め下に「坪头铺」という地名が見えるかと思います。虞坂はだいたいそのあたりにあるといわれています。

虞坂(虞坂古塩道)にまつわる地名や見所

ここからは虞坂(虞坂古塩道)にまつわる地名や見所を紹介していきたいと思います。

■古鎖陽関(古锁阳关)

周代(春秋時代)の虞国と晋国の境界線になります。

■児女窩(儿女窝)

「児女窩」は切り立った岩にある小さな穴のことで、ここで子宝を授かるようにお祈りをすることができるとされています。

また、「舜帝」の誕生と関係していると言われています。

長年、子宝に恵まれずにいた夫婦は、ある晩の夢の中で「それなら児女窩を触ってみなさい」と言われ、あちこち探し回りようやく見つけると、ふたりは児女窩の穴の中を触ってみました。

その後、妻は妊娠すると無事に男の子を産み、その子は「重華」(チョンフア)と名付けられました。この「重華」(チョンフア)とは舜帝の名前になります。

■天子床(天子床)

児女窩(儿女窝)のすぐ足下にある、幅5尺、長さ9尺の長方形の形をした平らで大きな青石のことで、天子が巡遊した際にここで休息をとったと伝えられています。

先ほどの「児女窩」の話では、夫婦が児女窩の穴の中を触ったあとにここで寝泊まりしたと言われている場所でもあります。

■識楽溝(识乐沟)

伯楽が駿馬と出会った場所とされています。

■響鈴弯(响铃弯)

平頭鋪村の北にあり、ここに来ると牛や馬の首につけた鈴の音が平頭鋪村の人たちに聞こえたため、それを聞いた村の商売人たちは商売の準備をしたと言われています。

■平頭鋪村(平头铺村)

ここに到着すると道はだんだんと平らになるため、足場の悪い道を歩いていたことで左右に揺れ動いて荷崩れしそうになっている荷を一旦ここで積み直しながら、人や牛馬も休息や食事をとったとされています。

■卸牛坪(卸牛坪)

この先の道は平坦になることから、役目を終えた牛馬から「荷を卸す場所」という意味になります。

■瓦罐廟(瓦罐庙)

俗に“挖刮廟”とも言われています。もともとは関所があり、ここを通る時は税を納めなければならなかったので、塩を運ぶ人たちはここで塩を納めていました。

「挖」とは「ほじくる、すくいとる」という意味で、「刮」「搾取する」という意味になることから、彼らは反感の意味を込めて“挖刮廟”と呼んでいました。

■劉娘泉(刘娘泉)

劉というある皇后が、干ばつの年にここで民のために泉が湧くように祈ったとされています。

虞坂(虞坂古塩道)から誕生した故事成語

虞坂(虞坂古塩道)から誕生した故事成語には、この「伯乐相马」以外にも、『兵法三十六計』の第二十四計である「仮道伐虢」(かどうばつかく)などもここから誕生した故事成語であると言われています。

まとめ

故事成語が誕生した「虞坂」(虞坂古塩道)について調べて見ましたがいかがだったでしょうか。

個人的には気になるところがあって、それは故事では馬が塩車を牽いていたとあるのですが、明代に道の拡張工事が行われるまでは荷車は通れないくらいに狭かったと言われていることから

おそらく伯楽がみた馬は塩車を牽いていたのではなくて、塩を入れた重い袋をいくつも背負っていたのではないのかなと思います。

また、伯楽が生まれたのは紀元前680年頃で、虞国が滅んだのは紀元前655年になりますが、そうすると虞公のために駿馬を見つけ出したのは伯楽が20代前半だったと言うことになります。

生まれた年については紀元前680年となっているものの、文献に載っているというわけではないようなので、誤差はあるのかもしれません。

いずれにせよ虞坂の途中には他にも色々と見所はあるようなので、いつの日か私もここを訪れて実際に自分の目で何があるのかを見てみたいなと思っています。

「虞坂」(虞坂古塩道)を実際に見てみたい方は、「虞坂古盐道」で検索すると出てきますので興味のある方は見てみてくださいね。

イラストレーターの皆さん

この記事を作成するに当たって使用させてもらった画像のイラストレーターさんになります。

「miho」さん - パンダ

「ダーダー」さん - 女子高生

 

chinese-mao

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