【故事成語】按图索骥( àn tú suǒ jì)②

按图索骥( àn tú suǒ jì):意味

「按图索骥」( àn tú suǒ jì)という故事成語には主に2つの意味があります。

(a)手がかりをもとにものを探すこと

(b)機械的に行うこと、融通が利かないこと(否定的ニュアンス)

どちらの意味であるかは文脈から判断することになります。

ちなみに、言い伝えによると、「伯楽」とは「天で馬を世話する神」のことを指しており、この世では「馬の優劣を見極められる人」を指すとされています。

現在、「伯楽」という言葉は「人材の発掘や登用に長けた人」という意味にもなります。

按图索骥( àn tú suǒ jì):あらすじ

政事を顧みない皇帝に対して、時世に見合う人材を得られない原因を伯楽が描いた画をもとに千里馬を見つけようとしていることと同じであると例えたという話。

按图索骥( àn tú suǒ jì):故事

梅福は字を子真といい、九江郡の寿春(現在の安徽省寿県)の人で、幼い頃に長安で学んでいたことから『尚書』や『穀梁春秋』に通じており、郡の文学、南昌県尉の官職を授かりました。

その後、仕官を辞めると寿春(現在の安徽省寿県)に戻り、県道を通る使者に緊急の用事を何度も上書するようになりましたが、いずれも採用されることはありませんでした。

この時、漢の成帝は大将軍の王鳳に政事を任せていたことから、王鳳は政(まつりごと)をほしいままにしていたが、京兆尹の王章は人柄が忠実で正しく真っ直ぐだったことで王鳳を風刺したために誅殺されてしまいました。

外戚の王氏はこれによりますます勢いづくことになり、異常な自然災害はしばしば発生し、群臣も正しいことを言おうとしなくなりました。

梅福は次のように上書しました。

「臣が聞くに、箕子は殷で気が狂ったふりをしたが、周の武王のために『洪範』を説いた。

叔孫通は秦から逃げ漢に帰順したが、礼制を制定した。

叔孫通は秦にいた頃に不忠だったのではない、箕子は離間し親族に背いたのではない、諫言することができなかったのである。

昔、漢の高祖(劉邦のこと)は善言を採用するにあたっては過失がないようにし、戒めに聞き従うにあたっては素直にし、善言を聞くにあたっては意見をした者に能力を求めず、論功行賞にあたっては過去の過ちや出身を問わなかった。

陳平は亡命の徒から策士の身となり、韓信は兵卒から抜擢されて大将軍となった。

故に天下の士は四方から漢に集まり帰順し、奇策を争って進言し、智者は策をある限り出し、愚者は憂いを取り去り、勇士はその操を極め、懦夫 (臆病者)は死を恐れなくなった。

天下の智慧を集めて天下の武威を合わせれば、秦を滅ぼすことは容易く(鴻毛のように軽く)、楚(西楚)を打ち破ることはものを拾い上げるように簡単となる。

これこそ漢の高祖が天下に対して無敵だった理由である。

孝文帝(漢の文帝)が代国から皇帝に即位した時、周召(周公旦と召公奭)のような師はなく、また伊尹や呂尚のような補佐役はいなかったが、漢の高祖の法に従い、慎み深く質素な気風を作り上げた。

この時にあたって、天下はほとんど治まった。

このことから、漢の高祖の法に従えば治まり、従わなければ乱れてしまう。

なぜならば、秦は不道を為し、孔子の跡を消し去り、周公の道(法)を滅ぼし、井田制を破壊し、五等(公、侯、伯、子、男の爵位)を廃止し、礼や音楽は廃れ、王道は通らず、故に王道を為す者はその功を手にすることができなかったのである。

漢の武帝は忠誠心からの誡めを好み、至言を喜んだ。

爵位を出すに清廉な官吏や人徳のある人材を待たず、賞を下賜するに功を示す必要はなかった。

このため、天下の民は意志を磨き精を出し、朝廷に赴いて自らの才能を示そうとする者は数え切れないほどであった。

漢が賢才を得たのはこの時が最も多かった。

もし漢の武帝がこれらの意見を聞いていたなら、天下は昇平(民に3年の蓄えがあること)となったであろう。

しかし、ここにおいて、死体を積み重ね骨は晒され、匈奴や南越を攻めてしまった故に淮南王の劉安はその隙を突いて反乱を起こしたのだ。

劉安の反乱が成功しなかったのは、多くの賢人が本朝(漢王朝)に集まっていたからであり、故にその大臣の勢力は弱まり劉安に追随しようとはしなかったのである。

今のところ民は国の情勢を窺い、隙あらば反乱を起こそうとしており、蜀群の鄭躬らが反乱を起こしたのもこのためである。

山陽郡の亡命之徒である蘇令が反乱を起こした時,名都大郡を踏みにじり、徒党を求め、追随者をかき集めたが、隠密に行おうという意図はなかった。

みな朝廷の大臣を軽んじて恐れ疑おうとせず、国家の権力が軽々しかったため、匹夫は君主と争おうとしたのである。

士とは国の宝である。士を得るのは難しいが、失うのは簡単である。

『詩経』は言う、「済済多士、文王以寧」と。朝廷の議は、草茅(一般の人たち)が言うべきことではない。

私は自分の死体が野の草木に塗れ、兵士らとともに並ぶことを恐れているので、こうして何度も上書しているが、その度に採用されたことはない。

聞くところによると、斉の桓公の時代に“九九算法”で謁見しようとした者を桓公は拒んだりはしなかった。

今私が言っていることは単に九九のような小事を言っているのではない。

陛下は私との謁見を三度断ったが、これこそ天下から士が集まらない理由である。

昔、秦の武王は勇ましさを好んでいたため、力士の任鄙(じんひ)が函谷関を越えて自らを推薦してきたのだ。

秦の穆公が覇業を成し遂げようとした時には繇余が帰順してきた。

今、天下の士を集めたいと思うのであれば、民の中から上書し謁見を求めてくる者を尚書に会わせ、尚書から彼らの意見を聞き出し、採用してもいい謀があるのであれば、少しばかりの恩賞や一束の絹を与えるのである。

こうすることで、天下の士は内に抱えていた不満を吐き出し、忠言を吐露し、毎日のように善言を聞くことができ、天下を治める上での筋道や国家の内と外の姿をはっきりと見分けることができるのである。

そもそも、天下の広さや士民の数をもってすれば、進言することができる者は極めて多い。

しかし、その中の英雄豪傑が政を述べて言を文章と成せば、たとえ先代の聖賢に比べて的を射たものでなかったとしても、今の社会で実践すれば時世に適うのであるが、このような者はほとんどいない。

故に禄や絹を与えることは天下の砥石であり、高祖はこれによって世の人々を激励したのである。

孔子曰く、“工欲善其事,必先利其器。”(工その事を善くせんと欲すれば、必ず先ずその器を利くせよ)と。

秦の時代となってからそうではなくなった。誹謗の網を張り巡らし、人才を漢に追いやり、泰阿(宝剣)を逆手に持ち、その柄を楚に授けてしまった。

故にもし本当にその柄を失わないのであれば、たとえ天下が乱れたとしても、その剣に触れようとはしないのである。

これこそ孝武帝(漢の武帝)が領土を切り開く功業を立て、漢王朝の尊崇される皇帝となった理由である。

今、覇業を成し遂げる者のやり方に従わずに、夏・商・周三代の選挙の方法で時世に適う士を得ようというのは、まさに伯楽の描いた駿馬を手がかりに市で千里馬を探すようなものであり、絶対に見つけることができないというのは明白である。

だからこそ、高祖劉邦は陳平の過ち(兄嫁を奪ったり賄賂を受け取ったこと)を咎めることなくその謀を得ることができ、晋の文公は周王朝の襄王を招き(狩于河陽、践土の会)、斉の桓公は自らの仇を登用したのは(管仲を宰相として登用)、正しいかどうかを顧みず時世に有益かどうかだけを見ていたからであり、これこそが覇道である。

一色で全体を成すことを醇(純粋、まじりけがない)といい、白黒が混同しているものを駁(まだら、入り交じる)という。

太平の世の中を治めるやり方で暴秦の事業を司ろうとするのは、郷で飲酒する時の礼によって軍市(軍の駐留地付近にできた市)を統制しようとするようなものである」

しかし、こうして梅福が上書したにもかかわらず採用されることはなく、その後も再び上書したものの採用されることはありませんでした。

梅福には後ろ盾がなく,朝廷からも遠い地位にあり、また再び外戚の王氏を非難したこともあって結局は謁見することができず、意見も採用されることはありませんでした。

元始(AD1~5年)の頃になり王莽が独裁を敷くと、梅福はある日の朝に妻と子どもを捨てて九江に去って行き、そのまま仙人になったと言われています。

その後、彼を会稽郡で見かけた人がおり、名を変えて呉県で隠遁生活を送ったとされています。

出典《漢書·梅福伝

《汉书·梅福传》:今不循伯者之道,乃欲以三代选举之法取当时之士,犹察伯乐之图,求骐骥于市,而不可得,亦已明矣。

今回の故事成語である「按图索骥」の故事のもとになったのは、前漢の時代について書かれた歴史書である『漢書』「梅福伝」になります。

【故事成語】按图索骥( àn tú suǒ jì )の記事では、馬の素養を見分けることが得意な伯楽(孫陽)という人物の息子の話を出典としています。

伯楽が馬について詳しく書いたとされる『相馬経』(原本は逸失)というものがあり、それを手がかりに伯楽の息子は千里馬を探しに出掛けていくのですが、結局のところ馬には似ても似つかぬヒキガエルを連れて帰ってきてしまうという話になります。

しかし、『漢書』の「梅福伝」にはその息子の話は出てくることなく、梅福が時の皇帝である成帝に向けての上書に「伯樂之圖」という言葉で登場するにとどまります。

前漢の第11代皇帝だった成帝(在位期間:紀元前33~紀元前7年)の治政に王氏一族の力が強まっていっただけでなく、酒色を好んでいた成帝は美人双子姉妹の趙飛燕と趙合徳に翻弄されたりしていたことなどもあって政事を顧みなくなっていました。

それに危機感を抱いていた人のひとりが梅福で、何度も上書してみたもののいずれも謁見を許されず、意見も採用されることはありませんでした。

その理由としては、彼が王氏一族を非難していたことと、そもそも地位が高くなかったというのが「梅福伝」には書かれています。

今回は一部省略しましたが、「梅福伝」の大半は梅福が成帝に向けて上書した内容が書かれています。

その中で、天下の士を集めるためにどうすればいいのかを説いている場面で次のような一文が登場します。(以下、拙訳)

■欲以三代選舉之法取當時之士,猶察伯樂之圖,求騏驥於市,而不可得,亦已明矣。

■三代の選挙之法を以て時に当たる士を取らんと欲す、猶お伯楽の図を察し市に於いて駿を求めるがごとし、得るべからずこと、亦た已に明らかなり。

■三代(夏・商・周)の選挙の方法によって士を得ようとするのは、伯楽の(描いた)絵によって市で千里馬を求めるようなもので、手に入れられないというのはすでに明白である。

この一文のあとには漢の劉邦が陳平の過去の過ちを咎めることなくその策を採用したことや、斉の桓公が過去に暗殺しようとした管仲を再び宰相として登用したという文が続きます。

このことから、伯楽の描いた千里馬の画というのはまさに「時世に合わない基準」の例えということになると思われます。

相手がどういう人物であろうと今の世の中が良くなるかどうかという基準をもとに意見を採用し人材を登用するべきだという、まさに「人を以て言を廃せず」ということを梅福は言いたかったのではないでしょうか。

ちょっと深掘り

今回の故事に登場する梅福(ばいふく)という人物についてですが、ほとんど聞いたことがないと思いますし、私自身も今回のこうしてちょっと詳しく調べるまでは聞いたことも見たこともない名前でした。

Googleさんで検索してみると上位に表示されるのは梅干し関連のものであることから、梅福さんはやはりマイナーな歴史的人物であることが分かります。

一見すると何か甘いデザートみたいな(失礼www)雰囲気を漂わせていますが、この方も伝に立てられるような立派な方だったようなので簡単に紹介したいと思います。

梅福は字を子真といい、生没年は不詳になりますがだいたい前漢の成帝(在位期間:紀元前33~紀元前7年)や王莽(紀元前45年~紀元後23年)が生きていた時代の人になります。

出身は九江郡の寿春(現在の安徽省寿県)で、幼い頃は長安で学問を修めていました。

その後は郡の文学や南昌県尉を務めていましたが、王莽が簒奪を企んでいた頃に妻子を捨てて隠居し、そのまま仙人になったと伝えられていることが『漢書』の「梅福伝」には記載されています。

「文学」についてですが、「管轄地域の教育に関する行政事務」、また「学校の責任者」や「儒家の経典に通じた人」のことを指すとされていることから、梅福は教育関連の事業に携わっていたと考えられます。

ちなみに出典は不明ですが、梅福の隠居先は現在の江西省南昌市の西側にある梅岭(梅岭国家森林公園、別名を飛鴻山ともいう)あたりだったとされており、梅福を紀念するために“梅洞祠”や“梅仙亭”などが建てられているとのことです。

また、王莽は梅福の従弟である“梅図”に金を与えて出仕を勧めようとしますが、梅福はこれを許さなかったとも言われていますが、これも出典は不明です。

従弟の梅図についてですが、若い頃は“侠客”(強きを挫き弱きを助ける人)として勝手気ままに暮らしていましたが、騎射(馬上から弓を射ること)を得意としており、かつては長安で暮らしていました。

義憤に駆られて素行の悪い少年の命を奪ってしまったことから死刑となりましたが、賄賂を贈り難を書を読むようになり書を読むようになり、帰順した諸民族を管轄する大鴻臚(だいこうろ)の属官である“行人”という官職に就いていました。

その後、王莽によって漢王朝が簒奪されると、梅図は王莽から梅福を出仕させるように迫られますが、梅福が拒否したことで自身が処罰されることを恐れ、梅福とともに隠居し、そのまま仙人になったと言われています(恐らくふたりとも出仕を勧められていたと思われる)。

例文

有了这张交通地图就可以按图索骥,很方便。

(この交通マップがあれば行きたい所を見つけられるから便利だ)

我们希望员工不要按图索骥

(従業員には杓子定規で仕事をしないようにして頂きたい)

類義語

生搬硬套( shēng bān yìng tào ):強引に当てはめる、強引に応用する

墨守成規( mò shǒu chéng guī ):既成の決まりを固く守って変えようとしない、「墨守陈规」とも

按部就班( àn bù jiù bān ):順序を追って事を進める、段取りをよくして事を運ぶ、段取りを踏んで進める

対義語

见机行事( jiàn jī xíng shì ):機会を見計らって事をやる、情勢を見て事を進行する、機を見ておこなう

不落窠臼( bù luò kē jiù ):古い型にとらわれない(主に文章や芸術についていう)

【按图索骥】ひとりで良馬を探しに行った結果www

伯楽の息子がひとりで良馬を探しに行った結果、ヒキガエルを連れて帰ってきてしまったという話は、下の記事にちょっと詳しくまとめていますので、ぜひ合わせて読んで見てくださいね。

参照

『漢書』「梅福伝」(維基文庫)

「梅福」(中国語版Wikipedia)

「梅図」(中国語版Wikipedia)

「文学」(百度百科)

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